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- 408 - 番外20.円龍寺本堂法話 / 2024年春永代経法要
円龍寺ラジオのエピソード番外20。2024年4月4日、香川県丸亀市の円龍寺本堂で春の永代経法要が営まれました。布教に香川県まんのう町にある善性寺、千葉憲文師(本山布教使)をお招きしました。
かっけい
千葉憲文師には、昨年の春永代経法要に引き続いてお話しいただきました。
昨年のご法話は下のリンクよりお聞きください。
2023年春永代経法要の本堂法話.番外162023年春に香川県丸亀市にある浄土真宗寺院、円龍寺で春の永代経法要がありました。香川県まんのう町にある善性寺の千葉憲文師(本山布教使)による法話を配信します。「幸せとは何か」などをお話しています。kaxtukei.com2023.5.2
2024, 円龍寺春永代経
讃題無明長夜の灯炬なり智眼くらしとかなしむな生死大海の船筏なり罪障おもしとなげかざれ
『正像末和讃』(親鸞聖人)より
本堂の南にお釈迦さまの生涯が描かれた絵が掛けられている
このお釈迦さまの絵は、円龍寺ご門徒さんの秋山秋則さんが50年ほど昔に描いて寄贈されたものです。
仏画家の野生司香雪(のうすこうせつ)の『釈尊絵伝』を元にして描いたようです。オリジナルの『釈尊絵伝』は七図からなりますが、円龍寺の釈尊絵伝は六図となっています。お釈迦様が悟りを開かれる前、苦行の末にやせ細ったお釈迦様にスジャータが乳がゆを供養したときの図がありません。オリジナルでは「牧女の供養」というタイトルです。
秋山さんはオリジナルを元にしつつも、独自に工夫して描いています。例えば三図目の出城では、釈迦族の王子だったお釈迦様(シッダールタ)が修行者となるためにカピラ城を出ている様子を表しています。元はカピラ城がはるか後ろに遠景に描かれています。一方で円龍寺の絵では、真っ暗ななか今まさに城門から馬と従者一人と出ようとした様子で描かれています。王位を捨て真理を目指そうという強い思いが感じられる一図となっています。
野生司香雪の釈尊絵伝は、仏教伝道協会の公式ウェブサイトで簡単な解説がされています。⇒釈尊絵伝仏教聖画(仏教伝道協会のサイト)
「釈尊絵伝」解説動画~ダイジェスト版(仏教伝道協会より)
本山布教使による過去の円龍寺本堂法話
* 2023年秋永代経法要(川田慈恵師)番外18
* 2023年春永代経法要(千葉憲文師)番外16
* 2022年春永代経法要(柴田好政師)番外14
* 2021年春永代経法要(千葉憲文師)番外9
* 2019年報恩講法要(大原観誠師)番外2
* 2019年春永代経法要(川田慈恵師)番外1
お便り募集してます
「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。
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Tue, 23 Apr 2024 - 58min - 407 - 230年忌法事はどれくらいずらせる? / 抱き合わせて一緒にしたいTue, 16 Apr 2024 - 12min
- 406 - 229お寺の法要の後にしていること / 法要の後片づけTue, 09 Apr 2024 - 9min
- 405 - 228新型コロナから5回目の春の法要 / この5年を振り返る
自坊円龍寺では2024年4月4日に春の永代経法要がある。2020年に新型コロナウイルスが流行してから5回目の春の法要となる。様々なことがだいぶコロナ禍前の形に戻ってきている。この5年を振り返るお話をしていきます。
Tue, 02 Apr 2024 - 16min - 404 - 227お坊さんの衣は高い? / 実はコスパがいいかもTue, 26 Mar 2024 - 7min
- 403 - 226法事には椅子を用意しよう / お寺から借りることも検討しよう
お寺は椅子をたくさん用意しています。足の痺れ・痛みを気にせずにお参りいただけるようにするためです。家での法事でも椅子に腰かけた方がいいです。法事用の椅子がなければ、法事のお勤めをするお寺からレンタルすることをおすすめします。
Tue, 19 Mar 2024 - 6min - 402 - 41.赤色のロウソク / ふつう仏壇や墓には白のロウソクだが、赤いロウソクを飾ることもある
第41回目のラジオ配信。「赤色のロウソク」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
テーマ「赤いロウソク」の内容まとめ
* 赤いロウソクを使うタイミングは、宗派や地域によって全く異なる* 年忌法事のような人が集まる大切な仏事の時に使う。(ふだんは白色のロウソクでいいよ)* 仏事の赤いロウソクは、朱蝋燭(しゅろうそく)というのが正式* 赤色のロウソクといわれるが、実際には朱色のロウソク* 朱色は仏教が日本に入ってきたときの色で、オレンジのかかった赤* 赤いロウソクは仏壇仏具店で購入できる
音声の文字起こし
いただいたご質問は「赤色のロウソクはいつ使うのですか?」です。
質問の答えを先に言いますと、
「宗派や地域によって、使うタイミングが全く異なっています。ですのでこの時に使ってくださいと、キッパリと限定してお答えすることはできません。しいて言うなら、大切な節目の仏事・法事のときに赤色のロウソクを用意します」になります。
以下、「赤色のロウソク」をテーマについてお話していきます。
さてそもそもですが、よく一般に「赤色のロウソク」と言われますが、だいたいの仏教宗派のお坊さんは赤色と言わずに、「朱蝋燭」というのが正式だったりします。
赤色でも緋色でも紅色でも茜色でもなく、朱色のロウソクが仏事で使われるロウソクの色です。
朱色は仏教が日本に伝わってきたときの色で、赤色よりもちょっとオレンジかかった赤色で、古いお寺の柱に塗られたちょっとくすんだ赤だと想像してください。
それが朱蝋燭の色。だから皆さんがいう赤ロウソクは、実際に買ってみると、想像よりも淡い感じの赤だなあと思うかもしれません。
お坊さん的には朱蝋燭といいたいのですが、今回は赤色のロウソクで言いますね。
さて一般的に、お仏壇やお墓で使うロウソクは、白色をお飾りしていると思います。
ですがお坊さんがお参りに来ると、「赤い色のロウソクはありませんか?」と尋ねられることがあるでしょう。
「え、赤いロウソクって必要なの?売ってなかったよ」と言われたりするのですが、ホームセンターやスーパーではなく仏壇屋にいけば間違いなくありますし、できれば用意しておいてほしい仏具です。
ロウソクを灯す意味は、2020年2月に配信した第30回ラジオテーマの「灯籠」と同じく、私たちにむけられた仏様からの智慧と慈悲の光を表しています。
ロウソクの色そのものが大事なわけではありませんが、ロウソクの色を使い分けるのは一つひとつの仏事を仏様参りをメリハリをつける役割があります。
冒頭に言いましたが、赤色のロウソクを使うタイミングは宗派や地域によって全然違います。全く使わない宗派も50回忌に使う宗派もあれば、49日法要や一周忌の向かわれ法事から使うところもあります。
例えば私の属している浄土真宗の興正派だと、毎日の通常のお参りでは白色ですが、年忌法事だと一周忌から赤を使い始め、3回忌・7回忌と年忌法事ではそれからずっと赤色のロウソクを使います。また宗祖親鸞聖人のご命日法要でも赤い色のロウソクを使います。
他に代表的な例を挙げると、東本願寺の大谷派だと3回忌の法事から赤色を使い、西本願寺の本願寺派だと7回忌から使い始めます。
ロウソクを使うタイミングはバラバラです。
こんな風に使うタイミングに統一性のない赤色のロウソクですが、それでもなぜ赤いロウソクを使うのかと言えば、一つひとつの仏事を仏様参りをメリハリをつけるためです。
色のついたロウソクが普及しはじめたのは、江戸時代の中頃になってからだとされます。江戸時代は、ちょうどお仏壇が一般に普及するようになったころですね。
色のつかない無地の白いロウソクが作りやすく、普段は白いロウソクを使っていたのですが、年忌法事のような節目節目の時には、仏さまのお飾りを通常とは違った様子にして、特別なお参りを演出していたのです。
一周忌や3回忌のような年忌の法事は、悲しいイベントだと勘違いしている人もいるかもしれませんが、そうではなく、亡き人を偲び、亡き人をご縁として縁ある人々があつまり、仏の教えに出会っていく場なのです。ですので、悲しいイベントというよりも、めでたいイベント・有難いイベントと思ってください。
簡単な覚え方をあげるなら、ふだんお参りするときは白色でも、お坊さんや家族や親戚といった人が集まるお参りのときは、赤色のロウソクを使うのかもと覚えてください。
ただ葬儀では色を使わない白や無地が喪の弔い方なので、人があつまる仏事ですが、葬儀では赤を使わないのが一般的でしょう。使う地域もあるかもしれないので、断定はできませんが。
どうでしょうか?
「赤色のロウソクはいつ使うのですか?」の疑問にお答えできていますでしょうか?
困ったときはお参りに来るお坊さんに、前もって赤い色のロウソクを用意しておくべきか聞いたらいいですし、悩んだら赤色と白色のロウソクを両方おいていただけたら、来たお坊さんが適当に使い分けてくれることでしょう。
ちなみに余談ですが、ロウソクは白色と赤色の二つが一般的ですが、時には銀色や金色も使うことがあります。ただ銀は白のロウソクで、金は赤のロウソクで代用できるので、ご覧になることは稀でしょう。
赤色のロウソクがスーパーや100均に売られてなかったので用意できなかったという人もいますが、仏壇仏具店には必ずあるので仏さまのロウソクはそこで買ってください。
買うときには、店員さんに自分の寺の宗派を言った方がいいですよ。宗派によってロウソクの形が違っているからね。
同じ浄土真宗でも派によって微妙に違っているので、自分で選ばずに店員さんにお任せすることをおすすめします。
ロウソクの光
第30回目のラジオ「灯籠の意味」でも話しましたが、仏前のお飾りは、仏さまのお浄土や功徳を表します。
灯りを仏さまに供える意味だけでなく、仏様から照らしてくださっている智慧と慈悲の光も表しています。
灯籠の意味.ラジオ#30お寺には灯籠(石灯籠)が必ず置かれています。その理由は仏教と灯籠に深い関係があるからです。灯籠は仏教伝来とともに日本に伝わり、仏様に対して火をお供えする仏具です。大切な仏具なのですが、現代では火を供える献灯・奉燈の意味が失われ、単なる装飾目的で灯籠が置かれることもあります。kaxtukei.com2020.9.27
よろしければ30回目のラジオもお聞きください。
仏事で使うロウソクの色
仏事では、次の4種類の色のロウソクが仏さまの前にお飾りされます。
Tue, 19 May 2020 - 7min - 401 - 番外5.円龍寺本堂法話 / 2020年春永代経法要
円龍寺ラジオのエピソード番外5。2020年5月5日に円龍寺本堂での法話音声です。布教は自役、円龍寺住職がいたしました。
かっけい
自役(じやく)とは、自分の寺のご法座で住職自身が役する(おつとめする)ことです。
本来であれば、本山布教使をお招きして、布教していただく予定でした。
2020, 円龍寺春永代経
お詫び
* 雑音が酷い個所などをある程度、編集・削除しています。* コロナウイルス感染予防のため、法話時間が短くなっています。
コロナ禍の中でのお寺の行事
円龍寺の感染予防の対応
「コロナウイルスに対するお坊さんの取り組み」や「コロナウイルスで仏教行事も対策を迫られる」で紹介しましたが、2020年は年明けからコロナウイルスが流行し、4月5月には全国に非常事態宣言が発令されました。
その中でのお寺の行事であり、感染予防に注意して法要をつとめました。
感染予防の対策
* およそ30分と、法要を短縮* 他の僧侶の出勤は控え、住職1名が読経・法話* 椅子の間隔は、前後左右斜めと2メートル離す* 本堂の扉を外し、風通しの確保* 各所に消毒液・消毒ジェルを配置* 定期的に椅子や机や柱を消毒* 堂内で混まないように、外にも受付を設置* 最後まで参加された人には、1人ひとりの手に消毒液をかけ、マスクを配布
お礼「佃様、三光正宗様」
お彼岸のころより、マスクやアルコール消毒液が不足しておりました。
お寺の行事に不織布マスクと消毒液を確保したいと思案していたとき、高松市の佃様は、私たち僧侶のために布マスクを手作りしてくださいました。
また岡山の地酒メーカーの「三光正宗」、杜氏の山上様のご懇意で、製品化したばかりの手指の消毒に使える高濃度スピリッツを届けてくださいました。
おかげさまで、法要の最後に、不織布マスクの配布と参加者全員へのアルコール消毒ができましたことお礼申し上げます。
三光正宗株式会社岡山備中の地酒「三光正宗」。地元の味と原料にこだわった酒造り。最高峰の酒米「山田錦」の祖「雄町」発祥の岡山県の酒蔵。酒米...www.sake-sanko.co.jp
コロナ禍でしたが、仏前のお飾りはいつもと変わらず、永代経をつとめました
兵戈無用(ひょうがむよう)
争いのない仏の世界
法話で「兵戈無用」の言葉がありました。兵戈無用は仏説無量寿経の中に登場します。
仏所遊履 国邑丘聚 靡不蒙化 天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用「仏説無量寿経」より
また浄土真宗の宗祖親鸞聖人は聖教のなかで次のように記しました。
人民安楽にして、兵戈戦息す、疾疫行ぜざるなり。
兵戈とは、武器や争いの意味です。
無量寿経の兵戈無用を訳すと、「仏が歩みいくところは、国も村も、その教えに導かれないところはない。世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風も雨もさわやかに、災害や疫病もおこらず、国は豊かに人びとは平穏に、武器をとって争うこともなくなる」のような意味になります。
「自粛警察だ・人を見たらウイルスと思えだ」と心が荒みかけているコロナ禍の中ですが、自分が正義・他人が悪だと、人が人を傷つけかねないこの世の中において、兵戈無用が戒めとして私たちのこころに響いてくるように感じます。
兵戈無用をより詳しく知りたい方に、大谷大学と東本願寺のウェブサイトを紹介します。
* 兵戈無用(生活の中の仏教用語)「大谷大学」* 息づく仏教「東本願寺」
今回は布教使をお招きを断わることになりましたが、常には円龍寺でのご法座は布教使がしています。
昨年の秋永代経と報恩講法要の法話をリンクします。よろしければお聞きください。
2019年秋永代経法要の本堂法話.番外1円龍寺は香川県にある浄土真宗寺院。毎年9月に秋の永代経法要があります。本山布教使が「阿弥陀仏ってどんな仏様?」をテーマにご法話しました。kaxtukei.com2019.9.10
2019年報恩講法要の本堂法話.番外2円龍寺は香川県にある浄土真宗寺院。宗祖親鸞聖人の報恩講法要で、布教使が「なぜ浄土真宗のお寺(円龍寺)が人々に選ばれたのか?」をテーマにご法話しました。kaxtukei.com2019.12.17
Tue, 12 May 2020 - 14min - 400 - 40.読経は朝夕2度 / お釈迦様がいた時代の仏教徒の日課が由来となって朝と夕方にお経を読む
第40回目のラジオ配信。「お経を読む」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「読経」の内容まとめ
* お経はお釈迦さまの説法の記録* 浄土真宗ではお経を読むのは、朝と夕の一日2度をすすすめる* 本願寺の蓮如が真宗門信徒に対して、朝夕に正信偈を読むことを決めた* 朝夕にお経を読むのは、お釈迦様がいた時代の仏教徒が、一日の終わりと始まりにお釈迦様のお話を忘れないように唱えていたことが由来とされる* 読経は、唱えている私の口から、仏さまの法を耳に聞くことである
音声の文字起こし
2020年5月5日に放送の今回は、前回に引き継ぎ、ご質問にお応えする形でお話をしていきます。
いただいたご質問は「お経はいつ読めばいいのですか?」です。
前回の反省をして質問の答えを先に言いますと、「朝と夕方の一日2回、お経を読むことを、浄土真宗ではおすすめしています」になります。
以下「お経を読む」をテーマにお話していきます。
さてそもそもですが、皆さまはお経が何なのか、ご存知でしょうか。
お経を呪文やまじないだと思ったり、亡くなった人の供養のために読んだりしている人もいることでしょう。
お経を読んで、病気を治したりお金持ちになったりと、お願いごとのためにしているかもしれませんね。
でもお経はそんなもんじゃないですよ。
お経はお釈迦さまがお話になったことを記録した文章です。
お釈迦さまが誰かから質問されますよね。するとお釈迦さまはその人の悩みに対して、対話したりたとえ話をしながら仏の法を説きます。
そのお話したことの記録がお経なんですね。
ですので、お経の中身にはストーリーがあって、お釈迦さまからの生きている人への説法となっています。
お経を読むというのは読んでいる人のために、読まれているんですよ。読んでいる人の口から出た言葉が、お釈迦様からの説法として、私の耳に入るのです。それがお経を読むことです。
さて、浄土真宗では朝夕の2度、仏さまの前でお経を読むことをすすめています。
理由は、今から500年以上昔に本願寺住職の蓮如が、全国の真宗門信徒に対して朝夕2度『正信偈』を読みなさいと決めたからです。だから浄土真宗では朝夕2度だと、今でも言っているのです。
本願寺の蓮如が全国の門信徒に対して、朝夕2度正信偈を読みなさいといったのには、理由があります。
それまでの浄土真宗お坊さんは、仏説観無量寿経や仏説無量寿経、仏説阿弥陀経、六時礼讃といった難しいものばかり読んでいたので、一般の民衆・門信徒は自分の口で、お経を読むことができなかったんですね。
そこで本願寺の蓮如は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人が書き残された正信偈に、読みやすいように節をつけて印刷して、お坊さん以外の人も仏様にお参りできる習慣をつけようとされたんですね。
それで朝夕の2度、正信偈を読みましょうとなって、今でも浄土真宗では「いつお経を読めばいいのですか」と尋ねられると、「朝夕に正信偈を読んだらいいですよ」とお応えしているのです。
さて「なぜ朝夕に読むのか」と不思議に思う人もいるでしょう。
朝夕に読むようになった由来は、お釈迦様が説法されていた時代にまでさかのぼります。
お経はお釈迦さまがお話になったことの記録です。ですがお釈迦さまの時代、お話を聞いた人々はそれを文字に残さず、暗記していたそうです。
お経の長さを見ますと、きっとお釈迦さまは30分や1時間、2時間以上とお話をされたでしょうが、お釈迦さまの時代の人は尊い方が話された言葉を、耳で聞いてひたすらに覚えようとしたんですね。
で、お釈迦さまは仏法を学ぶためには「陀羅尼(だーらに)」が必要ですよとおっしゃったそうです。
陀羅尼という言葉は浄土真宗では使いませんが、陀羅尼をわかりやすく言えば、記憶する力のことです。つまり仏さまの教えをいただこうとするなら「繰り返し繰り返し口に唱えて、仏の言葉を忘れないように」というのが大事だったんですね。
それでお釈迦さまの時代、お釈迦さまの説法を聞いた人たちがどうしたかと言えば、一日の終わりに、今日聞いたお話をもう一度自分の口で言い直して思い出そうとするんですね。
間違いなく今日のお話を口にできたら安心して、それで休むんですが、朝になると昨日の話をしっかりと覚えられているか不安になりますよね。
それで朝起きて一番にするのが、昨日の仏さまの言葉をもう一度自分の口で言い直すんですね。
お釈迦さまのお話を再現できてから、一日の食事や仕事がはじまります。
これがお釈迦さまが生きていた時代に、お釈迦さまのお話を聞いていた仏教徒がしていた毎日の日課だったわけです。
私たちがお経を読むことは、自分の口で唱えて、時代を越えて、2000年以上昔のお釈迦さまの説法を耳にしていることです。それはお釈迦さまが生きていた時代の仏教徒が、一日の終わりと初めに、仏の言葉を忘れないように繰り返し繰り返し口にしていたことを受け継いでいるからです。
ですのでいつお経を読めばいいのかと聞かれれば、朝と夕の2度したらいいですよと答えているのです。
ちなみに余談ですが、お経を読むことを「読経をする」と言われますが、お坊さんは仏さまの前でお経を読むことを「おつとめをする」と表現しています。
それは仏さまの前でお経を読むだけでなく、念仏したり讃嘆したりなどもしているからですね。
昼夜六時
お坊さんが質問にお答えするウェブサイト「hasunoha」でこんな問いがありました。
お坊さんの朝は早いと昔から聞いていますがだいたい何時に起床されますか?何か伝統と言いますか早起きの理由はあるのでしょうか?
対して次の回答がありました。
「なぜ早起きなのか」ですが、これは朝のお勤めをするためです一般的には朝と夕にお坊さんはお勤めをしますが、なぜ朝と夕なのかと言えば、それはお経に書いてあるからです
仏説観普賢菩薩行法経というお経に『昼夜六時に、十方の仏を礼し、懺悔の法を行じ、大乗経を読み、大乗経を誦し大乗の儀を思い大乗の事を念じ、大乗を持つ者を恭敬し供養し、一切の人を視ること、猶仏の想いの如くし、もろもろの衆生に於いて、父母の想いの如くせよ』…とあり「我々仏教とが日々にどんな思いで他者と接するべきか」を教えているのみならずお経を読んでお勤めをする時間の目安として、朝と夕の6時という具体的な指定をされています
私の知る限りでは、朝に早起きしてお勤めをするのは、このお経文から来るものと考えています
引用リンク「Tue, 05 May 2020 - 7min - 399 - 39.お仏飯とパン / お米を食べないからパンをお供えしてもいいかな
第39回目のラジオ配信。「お仏飯(ぶっぱん)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「お仏飯」の内容まとめ
* お仏飯とは仏様へのご飯のお供え* お仏飯は朝に供え、昼までに下げる* お仏飯は炊いたご飯が基本だが、パンでもOKとなってきている* お仏飯のお供えは、いのちの恵みとご縁に感謝するため* なかなかお仏飯をお供えできない時は、朝でも昼でも夕でもいいのでお米を炊いたときにお供えする* 法事のような特別な仏事でもご飯を炊くこと
音声の文字起こし
2020年4月28日に放送の今回はいただいたご質問から「ご飯の代わりにパンをお仏飯としてお供えしてもいいのか」についてお話します。
テーマは「お仏飯」です。
さてお仏飯をパンにしてもいいのかという質問ですが、そもそもお仏飯というのをあまりよく知らない人もいるでしょう。
お仏壇で仏様にお参りする時にお供えするものとして、どの宗派でも基本的に、お花(生花)・お香・お光(蝋燭)・お仏飯(ご飯)、この4つがあります。
ですがお坊さんの私が祥月参りとかで家にうかがいますと、お花・お香・お光が供えられても、お米のお供え・お仏飯が供えられていない、忘れられていることが多いです。
そもそも供えなければならないことを知らない人もいます。
仏教宗派や地域によってお仏飯の言い方や作法は微妙に違いますが、基本的な作法をここでは言います。
まずは、お仏飯は午前中にお供えし昼までにお下げするのが原則。これを知らずに年間365日、いつまでもあげっぱなし、カビが生えたり、カチカチのお米をあげている家もあります。
朝・午前中にお供えし、お参りしたら下げます。
というのもお釈迦さまがインドで修行されていたいた時代のお坊さんは、一日に朝一食を食べていたとされるからです。
朝起きて街に出て托鉢をして、そして修行の場所に戻り、お昼までに托鉢した食べ物をいただいていたからです。
だから浄土真宗では仏様とともに食事をすることから、朝にお供えしたお仏飯は昼までに下げるのです。
また当時のインドのお坊さんは托鉢の食事を朝食べていたのですが、自分が必要な分だけ食べれば、他の修行僧や人、動物にも分け与えていたとされます。
そんなわけで、私たちもお下げしたお仏飯は仏さまから分け与えられたご飯だからと、食べたらよろしいのです。決して捨てる必要はありません。
お仏飯をパンにしてもいいのかという話の前に、もう一点補足します。
お仏飯はご飯が作法ですが、より正確に言えば、焚いたばかりのお米をお供えします。数日前のだいぶ時間のたったお米はよろしくないです。
というのもお仏飯は、私たちの余り物・食べられないものをお供えするのではなく、大切な物・お初物、その時食べようとしていたものを、まずもっとも尊いお方、仏さまにお供えする気持ちが大切だからです。
自分たちがご飯を食べてからお仏飯を供えるのではなく、まずお仏飯を供えてからご飯を食べるのがよろしいです。
さてご質問者様は、こんなことを聞きたかったのではなく、ご飯の代わりにパンを供えてはダメなのかと聞きたいのでしょう。
これはだいぶ前から、言われ続けてきた質問です。
原則としてお仏飯は炊いたお米です。ですが、最近では毎日お米を焚く家庭も減り、パンばかりを食べる家も多いことでしょう。
そんなわけで各仏教宗派では、パンのお供えをしてもいいとお応えしています。ただし、ご飯を炊いたときには朝でも昼でも夕でもいいので、まず一番にご飯のお仏飯をお供えしましょうと付け加えています。
また法事のような特別な時には、ふだんあなたがパン食であったとしても、炊いたご飯をお供えしましょうとお応えしています。
というわけでご質問への答えは、パンでもとりあえずOK。ただし大切な仏事の時には、ご飯を炊きましょうねということです。
それでここからは、お仏飯に対する補足です。
今回ではないですが、「なぜ、ご飯じゃないと駄目なの?」「お米が主食だからっていうけど、昔の日本人はお米を食べられる人少ないでしょ。」「お釈迦さまはお米を食べていないんじゃない」「お仏飯は何のため?」といった質問もいただくことがあります。
宗派によって考え方が異なると思うので、浄土真宗お坊さんの私が個人的に思っている考えを説明します。
ご飯じゃないとダメなのという質問ですが、先ほども説明したように、現代ではパンでもまあいいかなあとなっています。基本はご飯ですよ。
で炊いたお米、ご飯の理由は主食がお米だからと言うと、昔の日本人の多くはお米を食べられなかったのに、お米を主食とするのはおかしいと言われます。
たしかにお米は年貢として納め、ご飯を食べられていたのは一部の人だけでした。
しかし作物のお米、稲作は縄文時代の終わり2500年ほど前に日本に伝わり、日本の風土・貯蔵といった観点から2000年以上、日本各地で作られてきた貴重な食べ物です。
一般民衆が毎日気軽にお米を食べられるものではなかったでしょうが、言い換えれば、それだけ貴重なものであり、私たちが愛してやまない食べ物をまず仏様にお供えしているんだという感謝につながると思いませんか。
主食のお米を仏前に供えるというのは、今私がパンを食べてるんだからパンでいいじゃないではなく、これまでの私たちのご先祖が2000年以上にわたり大切に作り続けてきたものを供えているという感謝と繋がりの意味が強いように私は感じます。
またお釈迦さまはお米を食べていないと言われる人もいますが、私はその根拠を知りません。また私はお釈迦さまはお米を食べていたと思っています。
稲作がはじまったのが、7000年ほど前の中国の南にある雲南省やインドの北東部のアッサム地方が有力だとされています。
アッサム地方はお釈迦さまがお生まれになったところに非常に近いですね。
またお釈迦さまのお父さん、スッドーダナ王は漢字にすると「浄い米の王」。またスッドーダナ王の兄弟全員が、スッコーダナ、ドートーダナ、アミドーダナというように、全員、ご飯を表わす「オーダナ」が名前についているので、お釈迦さまの生まれた国では稲作が盛んであったのではなのかなあと、私は想像しています。
ですので現代のお米と種類が違うにしても、お釈迦さまの一族もまた、お米を大切にされていたのではないかなと個人的に思ってます。
むしろお釈迦さまはお米を食べてなかったという根拠が何なのか非常に気になります。
次に「お仏飯は何のため?仏さまの食事なの」という質問ですが、浄土真宗では、亡くなった人・ご先祖や仏様が食べるためにお供えしていません、
お仏飯は仏様へのお供えであり、それはお仏壇という仏さまの浄土を表わすお飾りです。
Tue, 28 Apr 2020 - 10min - 398 - 38.からくら虫 / 仏教の最小の虫は新型コロナウイルス感染と似ている気がする
第38回目のラジオ配信。「仏教の小さな虫」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「小さな虫」のまとめ
* 仏教の小さな虫の名前は、迦羅求羅虫(からくらちゅう)* 普段は目に見えない存在だが、受けた風の分、体が自在に大きくなる* 仏の教えがどのように広がるかを、わかりやすく説明したたとえ話* コロナウイルスの感染と迦羅求羅虫は、よく似ているように感じる
音声の文字起こし
2020年も4月後半になり、朝晩だいぶ過ごしやすくなりましたね。
これがいつもの年なら涼しくて、多くの人が外に出てお仕事したり遊んだり畑をしたり、子どもたちは新しい学校生活を楽しんだりするのですが、今年はコロナウイルス感染予防の外出自粛でそんな雰囲気は一変しましたね。
ニュースを思い起こせば、年末年始に武漢で未知のウイルスが出たと報じられ、その時はまだ誰もが対岸の火事のように大したことと思ってなかったことでしょう。
1月24日からの春節でも安倍総理大臣も訪日歓迎メッセージ動画を送るなど、まだまだ危機感がありませんでした。どこ吹く風だというように。
それが2月に入り、横浜に停泊した豪華客船ダイヤモンドプリンセス号に感染者が出て隔離をするようになってから、「あれっ。これってちょっと危ないかも?」と風向きが徐々に変わってきましたね。
そして北海道で感染者が続いて2月28日に独自の緊急事態宣言を出し、3月からは全国の学校が休校・イベントの自粛、今では全国すべての都道府県で国からの緊急事態宣言が出されています。
最初は気にも留めないような小さなことだったのに、4ヶ月も立つと収拾もつかないほどの大事になっていますね。
この世の中の一連の流れを見ると、私はお経の中に登場する虫のことを思い出しました。
仏教で非常に非常に小さい虫なのですが、これがコロナウイルスに似ているような気がするんですね。
その虫の名前は、迦羅求羅虫(からくらちゅう)、「からくら」という虫です。
龍樹菩薩の大智度論や、曇鸞大師の浄土論註などに登場する虫です。
どんな虫かというと、普段は目に見ることができない大きさで、そこにいるけども分からない虫です。
でも大きな風を受けると、その虫は受けた風の分、どんどんどんどん大きくなり、あらゆる物を飲み込む大きさになることができます。
大きな風の時はすべてを飲み込み、小さな風の時は気がつかないレベルの大きさであり、自由自在に自分の存在を大きくも小さくもできる虫です。
これってなんとなしにコロナウイルスに似ていませんか。
最初、年末年始に武漢で未知のウイルスがでたと言われても、ほとんどの人は気に掛けることのないどこ吹く風でしたよね。
でも周りでどんどん感染が広がり、自分たちの生活が脅かされるようになると、もう連日コロナコロナと私たちの世界すべてをコロナが包み込んでいるような状況です。
もともと仏教で出てくるこの迦羅求羅虫は、仏の教えがどのように広がるかを分かりやすく説いたたとえ話でした。
迦羅求羅虫は風を受けると、あらゆるものを包み込む大きさになります。しかし風そのものではありません。仏教は仏の教えを届けてくれる人びとや場の縁があることで、私たちは教えに出あい、教えに感化され、教えの輪が風となってまた広がっていくのです。
コロナウイルスも何も風がなければ広がりません。
でも私たちは生きていますし、人と交わらなければなりません。コロナの風が広がるのは人間社会がある限り仕方のないことです。
またコロナウイルスは人以外にも存在するので、終息することはあっても完全に撲滅することはできないでしょう。気がつきにくいレベルで、ウイルスは存在し続けるでしょう。
迦羅求羅虫と同じように考えると、普段は目に見えにくい存在でも、そのときの風を受けるといずれまた大きな存在となるでしょう。
今はコロナを恐れて閉じこもっている時ですが、終息したあとは、コロナとともに生きていく社会なんだと意識するべきでないかと思います。風を大きくするのも小さくするのも、私たちの行動次第ではないでしょうか。
ちなみに自然界にいる世界最小の虫はアザミウマタマゴバチの仲間で、1㎜の大きさのアザミウマに卵を産み付ける虫だそうです。体の大きさは0.2mmないそうです。
玄米1粒の横幅は約2mmから3㎜ですから、米粒の10分の1が世界最小の虫だとイメージできますね。
迦羅求羅虫は仏教に出てくる小さな虫で、自由自在に量ることが無いできない大きさで、ほとんど0から無限に大きさを変えます。
コロナはウイルスで、0.1マイクロメートル (0.1 μm)ほどの大きさです。コロナは自然界最小のアザミウマタマゴバチの1万分の1のサイズでですから、そりゃ見えるわけがないですよね。
肉眼で見えるものだけが私たちの世界なわけではないのですから、目に見えにくい存在も意識していきましょうね。
迦羅求羅虫(からくらちゅう)
此云何不思議 譬如迦羅求羅虫其形微小 若得大風身如大山 随風大小為己身相これ云何が不思議なる。譬えば迦羅求羅虫の、その形微小なれども、もし大風を得れば身は大山の如く、風の大小に随いて己が身相と為すが如し。『浄土論註』より
Weblio辞書やgoo国語辞書では、「伽那久羅虫(かなくらむし)」に同じと説明されていますが、お経テキストデータベースのウェブサイトで調べると、迦羅求羅はあっても伽那久羅は出てきません。
翻訳者の表記の仕方が違うだけかもしれませんが、伽那久羅虫の出典が知りたいです。(ちなみに私の姓は「かなくら」です)
自然界最小の虫
自然界最初の虫(昆虫)は「アザミウマタマゴバチ」です。
詳しくは『世界最小の虫』(公益社団法人農林水産技術情報協会)で、アザミウマタマゴバチの特徴が書かれています。
上のウェブサイトでには書かれていないですが、世界最小の虫アザミウマタマゴバチは2対の翅(はね)を持っているが、移動する時は、飛ぶと言うよりは風に乗って空中に浮かぶような感じらしいです。
風に乗ると言われると、風を受ける迦羅求羅虫とちょっと似ているような気もしますね。
お便り募集してます
「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。
Tue, 21 Apr 2020 - 7min - 397 - 特別編.家で葬儀をする / 葬儀の参加者が家族だけなら自宅で見送ることを考えよう
円龍寺ラジオの特別編。
2020年4月7日に発令されたコロナウイルスの緊急事態宣言が、4月16日に全国の都道府県を対象に拡大された。
人との集まりが自粛される中、葬儀を見直す時期になっていると思い、ラジオ特別編を配信します。
内容まとめ
* コロナウイルス感染予防のため、葬儀の参列が自粛されている* 家族だけの葬儀も多い* 家族だけなら、ご自宅で葬儀をし、故人を見送ってはどうか* 葬儀社の人員を少なくし会館料もなく、葬儀費用も抑えられる
音声の文字起こし
先日、日本全国にコロナウイルスによる緊急事態宣言が発令されましたよね。それでちょっと申し訳ないんですけども、毎週火曜日に円龍寺ラジオを配信していたのですが、話したいことがあって今回、特別編を放送します。5分をめどにさっと話す予定です。
これまで7つの都府県に緊急事態宣言が出されてましたけども、47すべての都道府県に出されるようになって私の住む県も生活が一変した、と言いたいところですが、実際は街中の様子をパッとみても緊急事態宣言が発令する前と発令した後ではそんなに違いがないように見えます。
しかしお坊さんの私は実際にお参りに行って話を聞きますと、会社から法事や葬儀には参加しないでくれと言われたり、自治体の方から自治会に対して集会とか掃除の集まりは避けてくれ、ゲートボールとかもしないでくれと言われたそうです。
またお葬式も地域・近所の方が来ない、本当に家族だけでする葬儀も宣言後に増えました。
家族だけの葬儀ですから10から15人くらいの葬儀です。宣言前でしたら地域の人や遠方の人、会社の人も来て、30人40人50人規模の葬儀もありましたが、もう家族だけの少ない葬儀。都会の方でしたら5名前後、3名ほどの本当に少ない人数の葬儀もあるのではないでしょうか。
それで何でこの特別編を放送してるのかと言いますと、このコロナウイルス感染予防で人との交わりが減った時だから、今までの葬儀の仕方を見直す時期に来たのではないでしょうか。
私の地域では10年以上前から葬儀社の葬儀会館の場所で葬儀するのが増え、今では9割5分以上が葬儀社の会館で葬儀社の葬儀をしています。
お金の出費は増えても、地域の人の手を借りずに済む、葬儀社が葬儀を全部してくれることが葬儀社が流行っている理由です。
しかしもう家族だけの葬儀、10人いくかいかないかぐらいの葬儀だったら家で葬儀してはどうでしょうか。
それは何故かと言いますと、もう家族しか参列しないのであれば勝手知ったる関係ですので、場所を移動せずに、ご遺体を病院からご自宅に帰し、家のお仏壇の前で仏さまの前で枕のお勤めをして、そしてそこで納棺し葬儀し、家族が家の中で故人とのお別れをするのが昔からの自然な形ではないでしょうか。
家のお仏壇で葬儀をすれば葬儀会館に移動することもなく、葬儀社の人の手もほとんど借りずに済みます。また葬儀会館を借りる費用も発生しません。家族だけの葬儀なので帳場を立てる必要もありません。司会者もいりません。
また家族だけですると言っても、葬儀当日家で葬儀をする場合、玄関や縁にお焼香台を置いておき、葬儀の時に地域の人・隣近所の人がお焼香だけして帰ることもできるでしょう。
帳場も設ける必要がなく飲食物も香典返しも司会もないですので、納棺や霊柩車や火葬場の許可を葬儀社に手配してもらうぐらいなので葬儀社の人の手は2人か3人で済みます。
どういうわけか今、家でお葬式する場合でも、家にお仏壇があるにも関わらず何故か葬儀社が祭壇、お坊さんの私たちは荘厳壇と言いますが、葬儀社の人が荘厳壇を組み立てようとしますが、家にもともと仏壇があるのであれば、わざわざ別に葬儀社が家で新たに仏さまの壇を組む必要はありません。
あれは家でおまつりしていた仏様がない場合に荘厳壇を設けていただけであるので、家に仏壇があるのであれば亡くなった人の枕をそのお仏壇の前で横にしてあげて、そしてお棺に納めて、そしてご家族が集まりお坊さんが読経し葬儀社の人が霊柩車を持ってきて火葬をしてあげたらどうでしょうか。
コロナウイルスで参列者が減り、家族だけの数人から10人前後の葬儀が増えました。当たり前のように葬儀社の会館でしていますが、自宅でコンパクトにすれば葬儀社の職員との接触、また葬儀会館の利用費用も抑えられます。葬儀社によって違いますが建物利用費用が結構高いらしいですね。
家族だけする葬儀は勝手知った葬儀ができます。以前私のお寺円龍寺で家族だけの20名の葬儀したことがあります。それは家ではなく檀那寺のお寺を利用した葬儀でした。
お寺は仏教儀式をするための建物です。常に仏様をおまつりしているので、わざわざ祭壇・荘厳壇を組み立てる必要がありません。
司会者も帳場もたてなかったので、葬儀社の人の手を借りたのは納棺と霊柩車と3名分だけでした。お寺が喪主に対してお願いしたのは、お寺という場所を2日借りた10万円とお布施の2つをお願いしました。
今の時代どういうわけか葬儀費用が高い高い。葬儀をもっと安くしたいと言われることがあります。
それは家から離れて、業者による大勢の人の手を借りるようになったからです。コロナウイルスによる感染予防のこの時期、葬儀に参列する人がガクッと減っています。
このわずか10年間あまりで葬儀社の葬儀会館で葬儀するのが当たり前のようになったのかもしれませんが、家族だけがお参りしているこの時期、また葬儀の仕方を見直してはどうだろうか。住んでいた自宅家でする葬儀に戻ってもいいのではないだろうか。宗教施設のお寺でする葬儀を選択肢に入れてはどうだろうか。
参列する人に合わないくらいの大きな葬儀会場、葬儀に参列する人よりも多い人数の葬儀社の職員を見て、これなら家で故人を見送ればいいのになあと思う今日この頃です。
浄土真宗が使う葬儀の言葉
* 霊柩車(れいきゅうしゃ)* 祭壇(さいだん)* ご霊前(ごれいぜん)
* 柩車(きゅうしゃ)* 荘厳壇(しょうごんだん)、あるいは仏壇(ぶつだん)* ご仏前(ごぶつぜん)
浄土真宗では阿弥陀仏のご本願により、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれさせていただく教えです。
亡き人が霊となりさまようわけではないので、霊柩車やご霊前とは使いません。柩車やご仏前と言いましょうね。
祭壇とは、神・精霊・死霊などに供え物をささげるための祭具を置く壇のことです。浄土真宗では、仏壇の中心は南無阿弥陀仏の仏さまであり、お飾りは阿弥陀仏の功徳荘厳を表します。ですので祭壇ではなく荘厳壇(しょうごんだん)です。
仏事の場所に関する内部記事
* お寺でする葬儀は、葬儀社会館の葬儀とどう違う?* お寺での法事は施主にとって便利だ...Sat, 18 Apr 2020 - 6min - 396 - 37.オンライン法事 / ライブ化されたテクノ法要が注目されたが、これからの法事はリアルタイムでのリモート参拝が期待される
第37回目のラジオ配信。「法事のオンライン化」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「オンライン法事」のまとめ
* 現代は情報通信技術が発展している* テレワークといった離れた場所でも、インターネットオンラインを利用し、リアルな時間を共有できる* ライブ性のある法事・法要も、離れた場所からオンラインで、リモート参拝できるようにならないか* 実際に私は、ドイツからのオンライン法事を経験した
音声の文字起こし
日本だけでなく世界中でコロナウイルスによる影響が深刻化していますね。非常事態宣言が出た都府県では、不要不急の外出を控え、職種によっては休業要請され、学校やイベントは使用を制限されています。
2020年4月14日に放送予定の今回は、「オンライン法事」をテーマにお話しします。
ところで皆さんは、この2020年の4月13日から4月19日が科学技術週間だと知っていますか。4月18日が発明の日ということで、この一週間は全国各地の科学館や博物館、大学といった教育機関などでいろんな科学技術に関するイベントが開かれます。本来であればね。
でもどうでしょうか。
今年は未知のウイルス、新型コロナウイルスで多くの人が戦々恐々の生活をしているのではないでしょうか。私もかかったらどうしよう。生活どうしようといろんな不安があるでしょう。
科学技術は確かに直接、目に見える形で私たちを便利にしてくれるものです。一方で、ひとたび経験したことのない未知の出来事に遭遇すると、途端に対応できなくなります。
科学は人間中心の視点で発展していますが、ひとたび地球・自然の方から経験してこなかったものを与えられると、人間自身が対応することができなくなります。
とりあえず私たちが今できることは不要不急の外出を避け、人との交わりをしないでくれ、死に際や葬儀でも顔を合わせられないという、これまでの人類の歴史の中でも寂しく悲しい境遇です。
さて科学と一見、相反するように思われがちなものに宗教があります。
21世紀は自動運転、AI人工知能、IPS万能細胞、3次元プリンターといったように、科学の言葉は私たちの耳に目によく入り、ドキドキワクワクを与えてくれます。
一方で宗教と言えば、葬儀や法事に参加するぐらいと、ドキドキワクワクを与えてくれません。
これは宗教と科学では目指すところが違うから当然のことです。
しかし目先のドキドキワクワクを期待している現代では、多くの人が宗教を後回し後回しにしています。
コロナウイルスが今、流行しています。
不要不急の外出を避けてくださいと呼びかけられています。ご門徒から「法事は不要不急の外出に含まれますか?」と尋ねられます。
不要不急の反対は、必要火急です。
法事が本当に必要であり火急の用事であるかは、その人ごとに違うと思います。相談を受けたお坊さんはその人ひとりにあった返答をしますので、ここで「法事は不要不急だから」とか、「法事は必要火急だから」とかはお答えできません。
ただし今の状況を鑑みて言えば、
* 法事をずらせるのであれば、コロナウイルスが収まってから後日、延期してしましょう* 法事をするなら、マスクや換気、消毒、三密を避けるように注意してやりましょう* 近くに住む親族の人のみ参加してもらい、県外・遠方の人は、法事の案内だけにしておきましょう
といったアドバイスはできます。
「とあるお坊さんが、こんな時期だから法事は止めにしましょうと言われたので、私も法事を中止にします」と最近、ご門徒から言われました。
しかし基本的に、お坊さんは、お坊さんの方から法事を止めにしましょうとは言いません。
というのも、お坊さんは仏教儀式を依頼されて執り行いに行きます。依頼主、施主から、法事を止めにしませんかと言われなければ、台風でも大雪でも大雨でも、なんとしてでもお坊さんは行きます。
お坊さんの方から法事を止めにしましょうとは言いません。聞かれたらアドバイスできる程度で、決めるのは施主です。
さて前振りが長くなりましたが、今回のテーマは「オンライン法事」です。
現代では科学がだいぶ発展しましたね。1人1人がスマートフォン・携帯電話を持つのは当たり前。
コロナウイルスが流行ってからは、テレワーク・在宅勤務をすすめられています。
科学が発展し利用しやすい現代では、宗教のこと、法事の場でも科学を利用してはどうだろうかと私は提案したい。
今までの法事と言えば、法事の会場に遠方からも人が集まり、1つの空間で顔を合わしてお参りしていましたよね。
でも通信技術の発達した今では、その場に行かなくても、画面越しに顔を合わすことができます。
実際、私も5年以上前に経験しました。
あるご門徒さんの、家でする法事でしたが、施主の娘さんがドイツから戻ってくることができなかったんですね。そこでパソコンを仏間の机の上に置き、パソコン画面越しのリアルタイムで2時間法事に参加したんですね。
5年以上前でしたが、技術のある人は、すでに遠くからのお参り「リモート参拝」ができています。
テクノ法要といったイルミネーション・照明器具・音響設備を使った派手な仏事が流行ったこともありますが、通信技術が発達したこれからは、遠方の人で参加が難しかった人でも、リアルタイムでライブのような側面をもつ法事に参加するようになっていければと思います。
それが今回のテーマ「オンライン法事」です。
ちなみに私が5年以上前に経験したパソコン画面越し法事参加ですが、結構すごくて、私も向こうの様子が見えて、ドイツの向こうも法事の様子がハッキリ見えているようでした。会話も双方向にできて、すごいなあと感じました。
またもう一つすごいなあと感心したのが、ドイツは日本と8時間ほど時差があるので、法事をしているときはドイツは深夜3時ごろでした。
でも2時間の法事を最後まで参加してくださったのは、その人が法事を必要火急なことだと感じてとのことだと私は思います。
きっと多くの人は、今外国にいるから、今外出はダメだからと理由をつけてお参りしないでしょうが、この人は違いました。どんなに遠くて離れていても参加しました。
今は確かに、イベントごとを自粛しなければならない時です。法事でも延期や縮小が行われています。
しかし科学が発達しているというなら、科学技術を利用し、お参りに参加することが難しい人でも宗教イベントに参加できる時代になってほしいと願います。
それが法事のオンライン化です。すでにオンラインで法事をライブ体験している人はいます。
法事のオンライン化の問題点Tue, 14 Apr 2020 - 9min - 395 - 36.摩耶夫人 / ルンビニーの花園で右脇から出産したお釈迦さまのお母さん
第36回目のラジオ配信。「お釈迦さまのお母さん『摩耶夫人』」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「摩耶夫人」のまとめ
* お釈迦さまのお母さんは、摩耶(マヤ・マーヤー・マーヤ)夫人* 摩耶夫人はお釈迦さまのカピラ国に隣接するコーリヤ国の王の娘* 白い像がお腹の中に入る夢を見て、お釈迦さまを身ごもる* 出産のためにコーリヤ国に帰り、ルンビニーの花園で出産* お釈迦さまを右脇から産んだとされる* 出産後に亡くなり、妹のマハーパジャーパティーが養母となる
音声の文字起こし
最近ではコロナウイルスで県外に出かけることも難しいですよね。私は大阪に行くときは、高速バスを使うことが多いのですが、大阪に行く途中で、三宮バスターミナルを越えると、左手に大きく摩耶埠頭の文字が見えるんですね。
摩耶って文字を見ると、お坊さんの私はいつも、お釈迦様のお母さんをイメージしてしまいます。
さて2020年4月7日に放送予定の今回は、「お釈迦様のお母さん」をテーマにお話しします。
仏教にはいろんな仏様がいますね。きっとご存知でしょうが、お釈迦様、釈迦如来・釈迦仏は実在の人間としてこの世に生まれてきた仏様なんですね。
ですのでお釈迦様にはお母さんやお父さんがいます。また生まれた日や亡くなった日もあります。
このラジオ放送の明日、4月8日が、花祭りと呼ばれるお釈迦さんのお誕生日祝いの日ですね。
さてお釈迦様のお母さんについてですが、注意点があります。
お釈迦様の誕生は今から2500年ほど昔のことです。誕生やお母さんに関することなどは、伝承にもとづいていることがほとんどで、へえ~、ほえ~と、そんな感じなのかあとリラックスして聞いていただければ幸いです。
まずお釈迦さまの生まれですが、お釈迦様がカピラ国の王子として生まれたのは有名な話でしょう。
当時の北インド・ネパールには、16の大きな国があったとされ、カピラ国はその大国の一つコーサラ国の属国であったとされます。
ただし属国と言っても、独立した自治が認められた関係であり、カピラ国はシャカ族の単一の部族によって、成立した国だとされます。
お釈迦様のお父さんはスッドーダナ王と呼ばれます。漢字にすると、清らかなご飯の王や白いご飯の王となるように、農耕によって発展した国の王だと推測されています。つまり王といっても、裕福な貴族のような人です。
さて、お母さんですが、お母さんはマヤ夫人と呼びます。マーヤーやマーヤとも、夫人「ふじん」と書いて「ぶにん」と呼ぶこともありますが、私は摩耶夫人(まやふじん)が言いやすいので、今回は摩耶夫人でいきます。
摩耶夫人はお釈迦様のお母さんとして有名な方であり、それ以上のことはあまり語られることは少ないです。仏教経典にも、摩耶夫人が実の母という意味以外で、語られることはなかったです。
ですので摩耶夫人のことは本当に伝承の範囲を越えないことを注意して聞いてくださいね。
摩耶夫人はルンビニーの花園でお釈迦さまを産んだことが、もっとも重要なこととして伝えられています。
摩耶夫人はある時、夢の中で大きな白い像が自分のお腹の中に入るのを見て、お釈迦さまを身ごもったそうです。
その後、摩耶夫人はわざわざカピラ城から20キロメートルほど離れたルンビニーの花園で出産したとされますが、この理由は、摩耶夫人がコーリヤ族の生まれだったとされるからです。
摩耶夫人もコーリヤ族の王の娘として生まれ、川を境に隣接した国の人でした。摩耶夫人は隣国のシャカ族に嫁いだが、出産のために里帰りしていたとされます。そこがルンビニー園です。
伝説では、摩耶夫人がルンビニーの花園で沐浴し休み、無憂樹あるいは沙羅の木に触れようと右手を挙げた際に、お釈迦さまを右わきから出産したとされます。
なぜ右わきから生まれたのだと疑問に思われる人もいるでしょうが、その明確な答えはありませんが、ここではひとつの説を紹介します。
お釈迦様の生まれたころは、当然、まだ仏教はありませんでした。
当時のインドには様々な思想がありましたが、その中で特に影響力があったのが、四姓制度でした。カースト制度とも言われるものです。実際は4つ以上に社会的身分が分かれていのですが、基本的に、司祭階級のバラモン、王族・武士のクシャトリヤ、庶民階級のバイシャ・奴隷階級のスードラにわかれます。
この考えはお釈迦さまが生まれるよりもさらに前、紀元前12世紀ころにアーリヤ人によって成立したものです。
『リグ・ヴェーダ』を代表する古インド神話の世界観の中に、世界の最初に存在したとされるプルシャがいます。このプルシャは千個の目と千個の頭、千本の足を持っていたとされ、神々はこれをバラバラにしたそうです。
すると、プルシャの頭・口のところはバラモンになり、上半身・胴・腕のところはクシャトリヤに、下半身はバイシャに、足はシュードラになったとされます。
お釈迦様の生まれた時代はこんな考えがありました。
お釈迦様は王族クシャトリヤではありましたが、やがては悟りを開き仏となります。
摩耶夫人の手を挙げた右わきから生まれたのは、お釈迦さまが身分社会を越えた存在となり、仏教があらゆる境遇の人に向けた教えであることを示しているのではないでしょうか。
さて摩耶夫人がルンビニーでお釈迦さまを産んだという話ですが、この話は、西遊記で有名な7世紀の中国のお坊さん、玄奘三蔵法師が自身の旅行記「大唐西域記」にルンビニーが清らかな池と美しい花が咲いていたことや、ルンビニーに紀元前3世紀ごろのアショーカ王が建てた、お釈迦さま誕生を記した石柱碑文があったことを書き残しています。
摩耶夫人はお釈迦さまを産んでまもなく、一週間後と伝えられていますが亡くなります。
その後、お父さんのスッドーダナ王は、摩耶夫人の妹さん、マハーパジャーパティーを妻に迎え、お釈迦様の養母となりました。
摩耶夫人は白い像が体の中に入る夢を見たこと。ルンビニー園で右わきからお釈迦様を産んだこと。産んだ後まもなく死んでしまったことぐらいしか語られません。
一方で、育ての親である摩耶夫人の妹は、仏教教団最初の出家女性、比丘尼として、仏教経典にもその名前がしばしば登場します。
ちなみに豆知識ですが、亡くなった摩耶夫人は仏さまの国ではなく、忉利天と呼ぶ帝釈天を中心とした神々の世界に生まれたとされます。
そのためお釈迦様が仏さまの世界に生まれていない母のために、忉利天の世界にわざわざ行き、説法したお経もあります。その説法のためにお釈迦さまが忉利天に昇天した場所がインドのサンカーシャとされ、仏教の重要な場所であるお釈迦様の聖地の中で、唯一伝説に基づいた場所となっています。
こんな風に、摩耶夫人に関しては、伝説に基づく話が多いのが特徴です。
豆知識をもう一つだけ言うと、ラジオ冒頭で三宮バスターミナルを越えたら摩耶埠頭の文字が見えると言いましたよね。
Tue, 07 Apr 2020 - 10min - 394 - 番外4.白骨の章の拝読音声 / 浄土真宗は葬儀・中陰のとき、蓮如上人の手紙「白骨の御文」を読む
円龍寺ラジオのエピソード番外4。
2020年3月29日にコメディアンの志村けんが亡くなりました。コロナウイルスによる肺炎が死因だそうです。
* コロナウイルスが憎い* まさか亡くなるなんて思わなかった* コロナウイルスが無ければ、もっと生きられたのに
といったコメントがニュースで流れていますが、仏教的に言えば、無常の風が吹いたから亡くなったと言えます。コロナウイルスにかからなくても、他のご縁でもっと早くなくなったかもしれません。
浄土真宗では葬儀のとき、本願寺の蓮如のお手紙「白骨の章」を拝読します。
かっけい
白骨の章の拝読音声を録音しました
* 録音日:2020年3月30日* 読経者:釋克啓* 録音場所:円龍寺本堂
ラジオの補足
白骨の章の全文
それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万才の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて夜半のけふりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふも中々をろかなり。されば人間のはかなき事は老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏まうすべきものなり。 あなかしこあなかしこ。
白骨の章の別名
白骨の章は本願寺の第8世蓮如上人が門信徒にあてたお手紙です。
現在は5帖目第16通に納められていて、「白骨の章」と一般的に言われます。しかし宗派によっても呼び方が異なります。
* 本願寺派:白骨の御文章(ごぶんしょう)* 大谷派:白骨の御文(おふみ)* 興正派 :白骨の御勧章(ごかんしょう)
私が属している興正派は「御勧章」ですね。人に勧める章(お手紙)だから、御勧章です。
白骨の章を読まない宗派もある
白骨の章は蓮如上人からのお手紙のご法話です。
本願寺派や大谷派や興正派は、蓮如上人と密接に関係している派なので、白骨の章だけでなく日常のお勤めの後にも拝読します。
一方で、蓮如上人とあまり関わりのない浄土真宗宗派の寺院では、蓮如のお手紙を読まないこともあります。
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Tue, 31 Mar 2020 - 8min - 393 - 35.寺の総代の役割 / 宗教法人のお寺は責任役員の総代と住職が協力して運営
第35回目のラジオ配信。「総代」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「総代」の内容まとめ
* 住職の独断では寺院運営をしてはならない* 宗教法人のお寺は法人の財産であり、責任役員によって運営される* 法要・イベントなどお寺の場所やお金を使う場合は、責任役員の了承を得る* 総代は宗教法人の役職ではないが、責任役員が総代であることが多い
音声の文字起こし
なかなかコロナウイルスが終息しませんね。
このラジオでも3周ぐらい続けてコロナウイルスのワードを使っていますが、今回もコロナウイルスに関連したことをラジオテーマにしました。
2020年3月24日に放送予定の今回は、「総代」をテーマにお話します。
私の住んでいる所は香川県です。そして私はお坊さんです。
3月にはお涅槃やお彼岸、4月になると春の法要が多くのお寺で開催されます。でも2月の終わりに、安倍総理大臣が小学校・中学校・高等学校の休校要請をして、さらには集会の自粛要請もしましたよね。
お寺の法要もいうなれば、仏教イベントの集会ですから自粛の対象です。でもご門信徒には数週間前からすでに法要の案内をしているので、3月上旬に開催予定のお寺の多くは、法要をしました。
その時に「あんたのところはどうするんや」「私のところは延期・中止を考えとる」、「金比羅の金丸座は歌舞伎をする予定らしいで」などと、法要に集まったお坊さんたちがごぞごぞと相談しているんですね。
あれから3週間ほどたった今現在ですが、多くのお寺が中止もしくは延期を決定しました。こんぴら歌舞伎も4月11日から26日までの全日が中止になりました。
コロナウイルスがどこまで広がるのか、いつ終息を迎えるのか見当もつかない時ですが、文部科学省も4月からは学校も再開する指針を発表しました。
密閉・密集・密接な環境を避けることで、お寺も仏教イベントができるのではないかと考え、私の寺では4月4日の春永代経を5月5日に延期して法要をすることを決めました。
さて今回のテーマは「総代」です。
* 寺の総代にはどんな役割があるのか。* どんな人が選ばれるのか。* 世話人とどう違うのか。
など、総代について知らない人がおおいのではないでしょうか。
しかし寺院運営において、総代は必要な存在なのです。今回のコロナウイルスによる法要の中止・延期においても大切な役割を持っています。
あんまり複雑なことを言って、聞いてくれている人を混乱させてはいけないので、先に要点を3つに絞って言いますね。
まず第一に大切なことですが、お寺は住職(お寺の人間)の財産ではありません。そして総代の財産でもないんですね。
大切なことです。
じゃあお寺の財産は誰のものかと言えば、お寺とは宗教法人の法律によって認められているものであり、お寺の財産は法人の財産であります。お寺の人間は、自由に好き勝手にお寺のお金を使ってもいいのではありません。
じゃあ、どうやって、お寺の運営していけばいいのでしょうか。
これが2番目に伝えたいことで、お寺の運営は責任役員が行っていることです。
お坊さんは宗教や儀式に関するお仕事をします。寺の運営は責任役員の仕事です。
3番目に伝えたいことが、宗教法人法の法律では「総代」と呼ばれる役職の規定はないんですね。
つまり皆さんが総代って言っているのは、古くからの慣習で使われている言葉なのです。
* お寺のお金はお坊さんが自由に使えない* お寺の運営は責任役員の仕事* 総代という言葉は、宗教法人の法律にはない
この3つを踏まえて、総代の仕事や役割をもう少し詳しく説明します。
今回のコロナウイルスによるイベントの延期・中止においても、お寺はなるべく早く法要をするのかしないのかを決めて門信徒に伝えないといけなかった。
でもこれは、お寺の住職の独断で決めることはできないんですね。
法要はお寺の行事であり、世話人の助けも必要ですし、他のお坊さんもお参りに来ます。ご門信徒の人たちも他を休んで都合をつけてお参りに来ます。
当然、お寺も法要にむけて掃除をしたり仏前を飾ったりと準備します。
住職の独断で、法要をするしないと決められたら、お寺の運営も楽になりますが、それだと宗教法人として認められた寺が好き勝手な活動をして、寺が住職の私物化となる恐れがあります。
寺の運営は責任役員が決めます。宗教法人法では3人以上の責任役員が必要です。ちなみに寺の責任役員は誰なのかという書類は、所轄庁に提出しなければなりませんよ。
そしてこの責任役員の中から代表役員が選ばれます。例えるなら法人のリーダーですね。
大抵のお寺では住職が代表役員を勤めているのですが、だからと言って、住職が独断で寺の運営をしていいわけではありません。
必ず他の責任役員と相談し意見を聞き、了承を得なければなりません。
今回のコロナウイルスでもそうです。さっさと法要を延期・中止したらいいだろう。なんですぐに決めないんだと思う人もいるでしょうが、寺は責任役員と相談し、寺院運営を決定するのです。
時々「住職は一国一城の主」と大きな勘違いをしているお坊さんもいます。でもそれは違います。なんぼ自分が宗教法人の代表役員であろうと、寺を私物化することはできず、寺を改築したり、イベントをしたり、教室をしようとするといった、宗教法人のお寺の場所やお金を広く使うときには、必ず他の責任役員と相談し決定しなければなりません。
「あっ、あれしたいなあ」や「これはさっさと止めるべき」と、フットワークが軽く活動できるお坊さんが褒められたりしますが、寺院運営は責任役員全体で決めることです。
さて総代という言葉がいつまでたっても出てこないので、飽きてきた人もいるでしょう。
すでにお気づきでしょうが、責任役員を勤めているのが総代なのです。絶対ではないですが、多くのお寺では責任役員=総代のことが多いです。
総代というのは、ご門信徒の中からの代表者であり、ご門信徒をとりまとめ、寺院の運営も任される。リーダーシップと責任感・信頼される人が選ばれます。
より具体的な選び方は寺によって違いますが、一般的には、そのお寺とつき合いが古い家、地元のその地域に影響力のある家、そして寺の将来や問題点を真剣に考えてくれる人が選ばれます。
私がなりたいと立候補し、責任役員になって寺を自由に運営しようといった考えでは、総代にはなれません。
総代が責任役員であるお寺がほとんどであり、総代は寺の人間や住職が寺を私物化しないように寺院運営を管理し、またご門信徒をまとめることができる重要な存在なのです。
Tue, 24 Mar 2020 - 12min - 392 - 34.法事の延期 / 新型コロナウイルスで延期中止ばかりだけども法事の延期はダメなの?
第34回目のラジオ配信。「イベントの延期」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「延期」の内容まとめ
* オリンピックイベントはオリンピック憲章により成文化されている* 夏の東京オリンピックは2020年内にするか、中止するしかない* 法事法要の日どりは成文化されたルールはない* 仏教イベントは早くなっても遅くなっても問題ない* 多くの人がお参りできる日を選ぶことが大事。そのためには延期もOK
2021年への延期が決まったオリンピック
私はラジオの中で「オリンピック憲章のルールにより、来年以降のオリンピックの延期はない」ことを言いましたが、3月24日にオリンピックの2021年以降の延期が決まりました。
史上初のオリンピックの延期です。(中止はこれまでに3回あった)
オリンピック憲章との整合性について、3月24日夜に行われた組織委員会の会見では次のような説明がありました。
記者質問:来年にやるということであればオリンピック憲章にもかかわるが、その話は出たか。
組織委員会:出ていない。延期ということであれば史上初で、憲章が予想していることではない。バッハ会長はIOCの臨時理事会を開いて諮るということになると推察する。
「延期をオリンピック憲章では予想していない」との組織委員会の返答を聞いて、なんともずさんなルールだなあと私は率直に感じました。
音声の文字起こし
前回のラジオの最後に、新型コロナウイルスが世界中で広がっていて、全国いろんなイベントやスポーツが中止や延期になっていることを言いました。私のお寺も春の法要をするのかしないのかまだわからないです。
2020年の今年は東京オリンピックの年ですので、これだけ世界中で新型コロナウイルスが流行すると、本当にオリンピックできるのかと心配するところです。
アメリカのトランプ大統領が「オリンピックを1年延期したほうがよいかもしれない」とコメントしたことは私にとっては驚きました。
日本では、中止や延期や予定通りするとか、いろんな話がでていますよね。
でも私、小学生の頃、総合学習の時に、オリンピックは4年に一度、4年毎に行われるスポーツを通じた平和の祭典と学んだ気がするのですが、アメリカの人も4年毎にオリンピックをしなくても、1年延期しても、気にならないのですかね。
さて2020年3月17日に放送予定の今回は、「法事・法要の延期」をテーマにお話します。
オリンピックに話を戻します。
オリンピックの1年延期という話が外国の大統領からも出てきて、私オリンピック憲章の全文を読んでみました。
もちろん読んだのは最新の2019年版の英和対訳のオリンピック憲章です。6章61条94ページもありましたが、頑張って読みました。
すると、こんな文章がありました。読みますね。
* オリンピック憲章では1年とは暦年の1年のことであり、1月1日に始まり、12月31日までを指す。* オリンピアードは連続する4つの暦年からなる期間である。それは最初の年の1月1日に始まり、4年目の年の12月31日に終了する。* オリンピアード競技大会はオリンピアードの最初の年に開催され、オリンピック冬季競技大会はその3年目に開催される。
補足すると、オリンピアード競技大会とは、夏のオリンピック大会のことです。
オリンピック憲章によると、オリンピックの暦は4年毎であり、夏のオリンピックはその最初の年に開催することが決められています。
ということは、2021年や2022年に延期することはそもそもできないのです。
なのになぜ、今、来年以降に開催してはどうかという意見がでているのか疑問に思います。
こんな意見もあるでしょう。
「2020年に大会開催開始を宣言して、大会そのものは2021年にまで延期すれば、最初の年に開催するというオリンピック憲章を守っているのではないか」という意見です。
でもこれも無理な話です。
なぜなら第5章32条に、「大会期間が16日間を超えてはならない」とあるからです。だから2020年に開始して、2021年まで大会を続けるとするのも無理なのです。
「かつては冬と夏のオリンピックは同じ年にしていたから、今回も2022年の冬のオリンピックにしても大丈夫だろう」という意見もあるでしょう。
でもこれも無理な話で、冬のオリンピックの方が夏開催のオリンピックと離れて1994年から2年ずれたのであって、夏のオリンピックそのものは、1896年から常に4年毎の最初の年に開催しています。
できなかった年は、1916年のベルリン大会、1940年のヘルシンキ大会、1944年ヘルシンキ大会のように中止という形になっています。
冬が1994年から夏と別れて開催するようになったのに、夏が特例で冬にずれるのはおかしな話です。
オリンピックの暦、最初の年の2020年もできない。2年目の2021年もできないとなると、私としては東京オリンピック中止しかないと思うのですが、いかがでしょうか?
東京大会を2020年内にするのか、あるいは東京大会を中止して2024年パリ大会になるのか、どちらかしか選べないはずです。
さて今日の話のテーマは、法事法要の延期です。
よくこんな質問をされます。
「法事は命日よりも先にするべきですよね。後に延ばして遅れてするのはダメですよね」という質問です。
いやいや、法事や法要の日程は、オリンピック憲章のように、明文化されていないですし、命日より遅れて延期しても何の問題もありませんよ。
もしも仏教の教えで、「命日よりも先にしなければならないと」書かれてあれば、延期はダメでしょうが、そんなことはどこにも書かれていません。遅くしてはダメだという仏の教えもありません。
できることなら命日のその日がベストなのでしょうが、後に延期しようが前倒しになろうが、どちらでもOKです。
法事の日時を決めるうえで大切なのは、亡き人の命日をご縁として、ご仏縁、仏さまの教えにであう場を共有できることです。
なるべく命日に近い日を選び、できるだけ多くの人がお参りできる時を選べば、それが一番の法事の日になります。これはお寺の法要でも同じことです。
命日より先にしないと、先祖が迷った存在になるとか祟るとか、不幸が私の身に降りかかるとか、罰が当たるとか、そんな迷信ごとは気にする必要はありません.
そもそもお寺の法要をみていただければわかるでしょうが、お寺の法要日って結構遅れていますよね。
例えばお釈迦様の命日「お涅槃」って2月15日ですね。でも3月にお涅槃の法要をするお寺は結構多いですよね。春4月8日のお釈迦様の誕生日も同じで、4月8日よりも遅れて法要をするお寺も...Tue, 17 Mar 2020 - 9min - 391 - 33.涅槃(ねはん) / お釈迦様の命日は2番目の月の満月の日と伝えられる
第33回目のラジオ配信。「涅槃(ねはん)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)nehan day
音声の文字起こし
仏教ではお釈迦様に関する大切な日が3つありますよね。
お釈迦さまが生まれた日と、悟りをひらかれた日と、そして今日のテーマである亡くなられた日「涅槃」の3つです。
ではお釈迦さまがいつ亡くなられたのか?何月何日かご存知ですか?
そう、2月15日ですね。これは結構知っている人も多いことでしょう。ではなぜ、2月15日なのでしょうか。
それは南に伝わった仏教によると、お釈迦さまが亡くなったのは、2番目の月の満月の日だったとされるからです。だから中国や日本など、北に伝わった国々では、旧暦の2月15日をお涅槃としたのです。旧暦の15日は必ず満月になりますからね。
現在の日本では新暦が当たり前になったので、新暦2月15日を涅槃とすることもありますが、この日が満月となるとは限りませんね。
さて涅槃の頃に咲く桜と言えば、何を思い浮かべますか?
新暦2月15日頃でしたら、河津桜が有名ですね。2月初旬から咲き始める静岡県河津町の桜で、花びらが濃いピンク色が特徴的ですね。
では旧暦2月15日の桜だと何があるでしょうか。旧暦2月15日は新暦だと3月になります。
愛媛県・香川県には、涅槃桜という名前の、お涅槃に咲く桜があります。
私の寺、円龍寺にも涅槃桜があるので、詳しく説明すると、この桜の原木は、愛媛県の明正寺で発見されたもので、正しい品種名は「明正寺桜」です。
でこの明正寺は、真言宗善通寺派のお寺ですので、弘法大師空海誕生1200年の時に、総本山善通寺に寄贈されました。今では善通寺に20本ほどの涅槃桜が植えられているので、3月10日から15日頃には、涅槃桜の名所として、観光客が多く見に来ています。
旧暦のお涅槃頃に咲き、見頃となるので、河津桜とソメイヨシノの間に楽しめる桜です。
色は、濃いピンクの河津桜やピンク色のソメイヨシノよりもさらに薄く、白っぽい花で花びらも小さいですが、一方で、香りのよい桜だと私は思います。
浄土真宗では、お釈迦様のご命日の2月法要、「涅槃会」をあまりしているお寺は少ないように感じますが、この涅槃桜の咲く3月になると、彼岸会や永代経法要を積極的に勤めています。
このときに、涅槃彼岸会や涅槃永代経として、お釈迦様のご命日法要も合わせてしているお寺もあります。その時には、80歳で亡くなられたお釈迦様のお姿「涅槃図」をお堂に掲げているお寺もあります。
涅槃の姿は頭北面西
お釈迦様は亡くなられる時、頭を北に、顔を西向きに、右脇腹を下にして横になったとされます。私たちが亡くなった後、頭を北にする(北枕の)理由は、お釈迦様の姿をまねているからです。
ちなみに浄土真宗の宗祖親鸞聖人も、1262年11月28日の昼ごろに「頭北面西右脇に臥したまいて」の姿で、お釈迦さまと同じ姿で亡くなられました。
浄土宗の法然上人もまた「正しく臨終に臨み給う時、慈覚大師の九条の袈裟を掛け、頭北面西にして、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の文を唱えて、眠るが如くして息絶え給いぬ」と、お釈迦様の姿で亡くなりました。
涅槃に関係する内部記事
https://kaxtukei.com/nehane-february-15-buddha
https://kaxtukei.com/buddhism-important-day
上の記事は、仏教で大事な3つの日を紹介しました。
https://kaxtukei.com/nehan-sakura
こちらの記事は、月遅れの涅槃に見頃をむかえる「涅槃桜」について紹介しました。3月15日頃が、真言宗総本山善通寺で見頃ですよ。
* お釈迦様の説法を聞いた最初の5人の仏弟子* 2020年はお釈迦さまが亡くなって何年になるのか?
他、お釈迦様に関係するブログ記事も2つ取り上げました。よろしければご覧ください。
お便り募集してます
「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。
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Tue, 10 Mar 2020 - 5min - 390 - 32.仏壇屋石材店の選び方 / 仏壇やお墓に関することは地域に根差したお店を選ぶべき
第32回目のラジオ配信。「仏壇屋や石材店の選び方」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
ラジオお便りをいただきました。「新しいお墓とお仏壇を用意したいのですが、おすすめの仏具店・仏壇屋さんや石材店を教えてください。」(匿名希望さんより)
お便りありがとうございます。実はこのような相談は、よく受けます。
ご門徒さんからも「どこのお店に頼めば間違いないですか」と聞かれます。
結論を先に、短く答えると、「あなたのお住い近くの仏具店・石材店に頼むこと」を私はおすすめします。
有名なところ・大きなところよりも、あなたの近くのお店を頼みましょう。
以下、その理由を説明します。
なぜ近くの仏壇仏具店・石材店が良いのかと言えば、地域に根差しているから。もっといえば、その地域のお寺やお墓の事情をよく知っているからです。
例えば、私が住んでいるのは香川県の丸亀市です。
すると、どんなお店があるのかと聞かれると、「四宮石材や木谷仏壇、吉塚仏壇店など」が近くにあるとお坊さんの私は答えます。
今、紹介した名前は一例です。挙げなかったお店がダメとか、悪いとかではなく、私の近く、丸亀市や善通寺市にあってパッと頭に浮かんだ所を口にしただけです。
もしあなたが高松市に住んでいるなら、高松市を中心に展開している仏壇仏具石材店に声を掛けるといいでしょう。
インターネットで仏壇屋や石材店のウェブサイトを見ると、仏壇店の選び方として「お店選びは人選び」や「店内がきれい」や「産地やメーカー、材質・品質や工法などの説明ができる」などを挙げています。
もちろんそれも大切なポイントですが、人選びと言っても、店員は売り込むのが仕事ですから、愛想よく答えてくれるでしょうが、それで本当に私にとっていいお店かなんて判断できるでしょうか。
店内が汚いことや、産地やメーカー、材質・品質や工法などの説明ができない仏壇石材店もまれでしょう。
一番大切なのは、地域に密着したサービスをできるお店が、よい仏壇店石材店だと私は思います。
例えばですが、私の住んでいるところは、香川県の真ん中よりちょっと西の丸亀市です。
ある時、寺のインターホンがなって外に出ると、香川県の東にある高松市の石材店の人がわざわざこちらまで来ていました。
話を聞くと、あるお寺のご門徒から墓石を直して欲しいとの相談を受けたそうなのですが、お墓の場所や墓石がよく分からないとのことです。
さらによくよく話を聞くと、依頼をした人の旦那寺の宗派と私の寺の宗派が同じだと思っていたことや、墓地の名称を正確に言えなかったこと。さらには檀那寺の寺の場所もよくわからないことなど、抜けていると言いますか、地元に根差していたなら間違えるはずがないであろうことが多々ありました。
困っていたようなので、私も墓地に行きアドバイスしましたが、無事に終わったとかの事後連絡は何もなかったです。
テレビ出演したり、広告などで知名度があるお店なら間違いない仕事をするだろうと消費者は思うかもしれませんが、そんなことはありません。
むしろ小さくても、地元にあるお店の方がずっと優れたことをしてくれます。
よい仏壇屋、よい石材店を見極める方法があるとすれば、私なら次のようなことを言います。
仏壇屋には「私の寺の檀那寺は、○○町の○○寺です」
加えて石材店には「私の家の墓は、○○墓地にあります」
こういうと、地域に根差したお店なら「ああ。あそこの寺ですね。だったら宗派はこれですので、仏壇はこういうデザインが相応しいですよ。仏具はこれが正式ですよ」と答えてくれます。石材店ならすぐに現場に駆けつけて現状を確認してくれますし、依頼者の講中や周囲の墓とバランスのあったデザインや材質を提案してくれることでしょう。
また墓石や仏壇の修理・廃止といった大掛かりな依頼だと、必ず檀那寺への連絡をして、依頼者と檀那寺とのスムーズな関係をきずいてくれます。
これが私の思う、よい仏壇店石材店です。地元のことをよく知り、依頼者とお寺との関係も円滑にしてくれるお店です。
これが地元のことを全く知らないお店だと、依頼者の宗派や周りとの関係も考えずに自分の所の価値観で、素材を選びデザインを決めたりします。
また墓地の管理者に、何日の何時ごろに重機を持ち込むとかの相談をせずに黙って仕事をすることもあります。(きっと、管理者が誰なのか分かっていないこともあるでしょう)
お墓も仏壇も代々受け継いできたものです。
永く付き合っていくものなのだから、地元に根差したお店を選び、寺や地域との関係をまとめることができるお店を選ぶべきだと思います。
仮にお墓や仏壇をやめるにしても、地域の実情をよく知る地元のお店を選ぶべきです。
有名だからとか大きなお店だからとかネット上での評判がいいからとかの理由で、遠く離れたお店を選ぶのは私はおすすめしません。
お店を探すのが難しい時は、檀那寺に相談してもいいでしょう。いくつか名前を挙げると思うので、実際に足を運んでみて一番良いと思う所を選んでください。難しい場合は、お寺から連絡してもらうのも良いかもしれません。
地元のお店はきっと丁寧に対応してくれるはずですよ。顔を合わせての打ち合わせを、親切に何度もしてくれるでしょう。
仏壇やお墓に関する内部記事
* 仏壇を新しくしたときは、開眼(入仏)のお勤めをする* 浄土真宗の仏壇の飾り方* 浄土真宗の仏壇やお墓にお水を供えない理由* 浄土真宗のお墓の建て方で気をつけること
仏壇にお供えする果物の上下の向き.ラジオ#17仏壇にお飾りする果物の向きについて、ほとんどのウェブサイトが見栄え重視でお飾りすることを説明しています。柿だとヘタや葉っぱの見える部位を下すると解説します。しかしそれは間違いです。仏さまへの正しい果物の置き方は、木に実っていた自然な向きでお飾りします。kaxtukei.Tue, 03 Mar 2020 - 8min - 389 - 31.火葬の金額 / 火葬料金は葬儀全体の費用に比べてなぜ安いのだろうか
第31回目のラジオ配信。「火葬のお金」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
先日、ご門徒さんから、「火葬の費用はどうして安いのか?」と質問を受けました。そこで2020年2月25日に放送予定の今回は、「火葬のお金」をテーマにお話します。
まず最初に言っておくことですが、火葬にかかるお金が高い安いというのは、人それぞれの感じ方なので、火葬の費用が本当に安いかというのは、私からはなんとも言えません。
ちなみに一般的な火葬の費用は2万円前後でしょう。
葬儀全体の費用が、20万・50万・100万とするならば、火葬の占める割合が2万だと安く感じるのかもしれません。
さて今回の質問は、火葬のお金はどうして安いのかということでした。
結論を先に言うと、現在の日本では、遺体をほぼ100%火葬するからです。
日本には『墓地、埋葬等に関する法律』がありますが、火葬を必ずしなさいというルールがあるわけではありません。
しかし火葬以外の弔い方では、公衆衛生や遺体を弔う場所の確保が難しくなるので、できることなら火葬するのが良いとされたのです。
加えて、仏教的な葬儀をする場合は、火葬をするのが相応しいという理由もあります。
私たちは仏教的な葬儀をする際に、お坊さんから法名や戒名をいただきますよね。あれは仏教の開祖であるお釈迦様・釈尊から釋の一字を受けて、お釈迦様の仏弟子であるという名のりなのです。
お釈迦様は生前に、弟子たちに対して、自分が亡くなった後の遺体の処理の仕方や火葬の仕方、お骨をまつる塔を立てることなどを言い残しました。
お釈迦様の火葬にならって、仏弟子だと名のった私たちもまた火葬をしているのです。
ですので、現代の日本においては99%以上、ほぼ100%火葬によって遺体が処理されているのです。
火葬をするのが当たり前になっています。火葬ができないとダメなのです。
遺体を火葬するのが必然となっているのに、仮に火葬の料金が10万や20万と高額になったら、どうなると思いますか?
火葬できない人も出てくると思いませんか?
どんな人でも火葬だけはできるようにと、火葬にかかる費用は安く・手ごろな価格になっています。
ちなみにみなさんは、火葬場には大きく二つのタイプがあるのをご存知でしょうか。
各自治体が運営している公営の火葬場と、民間企業が運営している民営とに別れています。
公営の火葬場では、その自治体管轄内の住民に対してはだいたい1万~2万円程度の価格で火葬を受け入れ、他の住民からの火葬依頼は約3倍料金のおよそ5万円で受けることが多いでしょう。
民営はそうではありません。公営と比べて、商売でやっているので、5万以上の火葬費用をとるところもざらにあります。
ただ東京都以外では、公営の火葬場が圧倒的に多く、各自治体ごとに1つは火葬場を設けていることがほとんどです。私の住む香川県では、民間がする民営火葬場はひとつもないはずです。
東京だけが公営よりも民営火葬場が多いのです。
東京以外で公営の火葬場が多いのは、火葬業で儲けようと考えてはいけないからです。火葬は赤字でするものだからです。
火葬はだれでもできなければなりません。しかし2万円では火葬業をすることはできません。日本では葬祭業をする葬儀社・葬儀会館はどんどん増えていますが、火葬は高い値段をつけることができないので儲けられません。公的なところが税金で予算をたてて、火葬業をしているのです。
例えば、私の住む丸亀市には、桜谷聖苑という火葬場があります。公的な建物なので所長さんのみ公務員で、後は民間から雇われた人が働いていると聞きます。火葬には特殊な炉を使います。その炉を休ませながらメンテナンスし運用するのには技術がいります。到底2万円では火葬はできません。
しかし火葬をするのが当たり前となっているので、公営では管轄内の住民に対しては2万円以下の費用で火葬をしているのです。
ただ東京だけは話が別で、東京は23区で一日に200人ほどが亡くなっています。7つの民営と2つの公営火葬場があって炉が約100ほどです。
東京以外の自治体だと、亡くなる人数が火葬炉の数より少なく、炉を休ませることができるのですが、東京だと、常に炉が使われている状態です。
だから民営の火葬場は値段が高くても需要がありますし、また東京の7つの民営火葬場はどれも葬儀式場や遺体安置室や会席室などを用意しており、火葬業・葬祭業などをすべて合わせて行い、利益を得ようとしています。
亡くなる人数と炉の数が他とは違っている東京だから、東京は民間が多く、他よりかは高くても火葬が行われているのです。
さて話をもどしますと、火葬はだれでもできるというのが、基本的な考えです。
ですので公営の火葬場によっては、自治体住民の火葬料金が0円ということもあります。
例えば香川県の宇多津町では町民の火葬料金は0円です。
これは私の想像ですが、宇多津町は香川県でも唯一、人口の増えている自治体でありお年寄りが多くない地域です。年間の死者数が100人ちょっとなので、宇多津町が火葬で得る火葬料金の200万~300万の予算をたてれば、町民は気持ちよく自分の自治体で火葬できると考えているのではないだろうか。
人によっては、2万円を支払うのが難しいと訴える人もいることでしょう。
しかし心配しないでください。多くの自治体では『葬祭費給付金制度』というのを用意しています。自治体によって、支給額は違いますが、だいたい2万円から3万円を支給してくれますので、自治体の火葬料金の2万円は実質、ただで火葬できますよということです。
火葬料金の高い東京都では、5万円から7万円ほどを支給してくれますので、こちらも実質、火葬料金は0円だと言えます。
今日の話をまとめます。
葬儀全体の費用に対して火葬料金はなぜ安いのかに対する答えは、日本の遺体の弔い方は、ほぼ100%が火葬だから。火葬をするのが当たり前となっているから、火葬はだれでもできないとダメだから安い。
火葬業のみでは儲けることができないので、亡くなる人が多い東京以外では、自治体が公営で火葬場を用意し、予算を立てて2万円以下で火葬を受け付けている。
葬祭費給付金制度を利用すれば、私たちは実質0円で火葬をすることができる。
Tue, 25 Feb 2020 - 10min - 388 - 30.灯籠の意味 / 灯籠が寺にある理由は仏教と密接に関係する仏具だから
チャプタースキップ 灯籠の歴史
灯籠の役割
灯籠の火袋の形
灯籠は石灯籠だけじゃない
火を供える意味は?
灯籠に刻まれる文字
第30回目のラジオ配信。「灯籠(とうろう)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「灯籠」の内容まとめ
* 灯籠は仏教伝来の飛鳥時代には伝わっていた* 灯籠は明りとりの照明器具ではない* 灯籠は仏様に灯りをお供えする意味がある(献灯・奉燈)* 灯籠はお寺のお堂をイメージして作られている* 灯火は私たち向けられた仏さまの智慧の光を表す
音声の文字起こし
お寺に行きますと、かならず灯籠がありますよね。あれって、なぜなんですかね。なんのためにあるのでしょうか。
灯籠は存在感がないのか、「灯籠って、あったっけ?」と思い出せない人もいるかもしれません。
でも灯籠には大切な役割があります。気がつきにくくても、お寺には無くてはならないものです。
灯籠の歴史をまず説明しますと、灯籠は今から1500年ほど昔、仏教が伝来した飛鳥時代の頃に大陸から伝わってきたとされます。
その灯籠の役割は仏さまに、灯籠の灯りをお供えするというものです。お寺と言うのは仏像を安置して、仏さまをまつる場所ですから。そこに清浄な灯りとして灯籠を設置していたのです。
で清浄な灯りをお供えするという、この灯籠のもともとの役割は現代でも同じです。
お寺に寄進したいという人がいた場合、灯籠を新しく設置するのも、仏さまに清浄な灯りを供えるという意味があるからです。
で現代人の私たち皆さんは、
* どうして灯籠の中に、火をつけないんだ。* 灯りをつけないから、存在感がないんだ。* 照らさない灯籠は、いらないんじゃないか。
と疑問に思うのではないでしょうか?
灯籠には、いろいろな形があります。
色々な形があるのですが、どの灯籠にも必ずあるのが、火を灯す空間「火袋(ひぶくろ)」という部位です。
この火袋がなければ灯籠と言えないですし、ちょっと見では、お墓と見間違えるかもしれない。
灯籠は仏さまに火をお供えするためにあります。これが大事な灯籠の役割です。
敷地や道路を照らすといった照明器具のような実用的な意味で、火を灯すものではありません。
仏さまに火を供える・灯すのが灯籠なのです。灯籠の火袋の形を思い出してほしいのですが、たいてい四角形か六角形の形をしていますよね。
あの火袋の形は、お寺のお堂の形を、イメージしているとされます。
ですのでお寺の灯籠というのは、仏さまをまつるお寺にあるだけで、その役割を果たすのです。灯りを灯し続けなければならないというのではないのです。
そういうことをしてしまうと、装飾目的の灯籠になってしまうと思いませんか。
繰り返し言いますが、灯籠は仏さまを敬い祀るために清浄な火をお供えするのです。そして灯籠の火袋の形はお寺のお堂をイメージしているとされます。
特別な法要の時にだけ、祭礼用に火を灯すのです。常にはつけません。
さてここまでの灯籠のはなしで、ちょっと確認ですが、皆さんはどんな灯籠を頭の中でイメージしていましたか?
きっと門の前や参道にある石灯籠を思い浮かべていたのではないでしょうか。
でも灯籠はそこだけ、石灯籠だけではないですよね。
例えばお寺のお堂の中に入ると、天井から吊り下げられている灯籠があります。金属の灯籠だから、金灯籠(かなどうろう)や(きんどうろう)と呼ばれたりします。家の仏壇にも、コンパクトな置き灯籠がおかれていることもあるでしょう。
ここまでの話でお気づきでしょうが、室内の灯り取りのために置いてあるのではありません。仏さまに灯りをお供えするために設置しているのです。
お盆の時にも木や紙でつくった簡易な灯籠を用意しませんか?あれも仏さま、また先祖に対して火をお供えしているんですね。
灯籠は存在感がないと言いながらも、仏教において非常に大切な役割をもっている仏具なのです。
灯籠があっても部屋が明るくならないと言う理由で、仏壇に灯籠を置かないというのはおかしな話です。灯籠は灯り取りではありません。
仏様にお参りする際にお供えする大切な仏具です。必ず用意しましょう。
さて火をお供えするという話をしますと、中学生や高校生くらいの人から、「ゾロアスター教みたい」と言われます。きっと学校で習ったのでしょう。
ゾロアスター教は歴史の教科書に出てきますね。イラン・ペルシア辺りに住んでいた古代アーリア人の宗教ですね。火を絶えず燃やし続け、偶像を持たない代わりに火を拝むことから「拝火教(はいかきょう)」とも言われています。
仏さまに火を供えるという説明をすると、ゾロアスター教のように言われるかもしれませんが、違います。
というのも仏教でいうところのお供えは、仏さまにそなえてはいるのですが、それは返って、お供えしている私たちの方にむけられているからです。
仏教では光は仏の智慧を表わす言葉です。そして仏の光を表わすのが、私たちがお供えしている蝋燭や灯籠の灯りなのです。
これは灯籠の灯りに限った話ではありません。例えばお花をお供えしますよね。あれは仏さまにむけませんよね。お浄土に咲き誇る花として私たちに向けていますし、お焼香の煙も仏様に供えているように見えて、お参りしている人たちを清浄な気持ちにさせるためにあります。
灯籠は火を仏さまにお供えします。
しかしそれは火をあがめるためではありません。
私が灯す灯りが、仏さまから私を照らしてくださる智慧の光といただく灯りとなっているのです。
だからお寺や仏壇には灯籠が必要不可欠なのです。設置しても明るくならないからいらないとはなりません。
さいごに私のお寺の雑談をして灯籠の話をしめます。
灯籠に対して「灯籠(とうろう)」の文字・漢字が書かれてることは滅多にないでしょう。ではどんな言葉が刻まれているでしょうか。
いろいろありますが、私の隣のお寺では門の前に「奉燈(ほうとう)」、私のお寺円龍寺では「石檠(せっけい)」と刻まれています。石檠と言う文字は珍しいかもしれません。奉燈の文字は私の住む丸亀・多度津周辺では見かけることがあります。
円龍寺かっけいブログ記事でも紹介していますが、簡単に説明しますと、奉燈は仏前に灯明・お光を献上すること。石檠の檠は木の上に敬うという漢字をしており、吊り下げてい...Tue, 18 Feb 2020 - 9min - 387 - 番外3.重誓偈の読経音声 / 般若心経を読まない浄土真宗は短いおつとめに重誓偈(三誓偈)を読む
円龍寺ラジオのエピソード番外3。浄土真宗は般若心経(262文字)を読みません。ご門信徒から「般若心経に代わる日常の短いおつとめを教えてほしい」とたずねられ、220文字の重誓偈(じゅうせいげ)を紹介しました。
かっけい
重誓偈とお念仏と回向の読経音声を録音しました
* 録音日:2020年2月9日* 読経者:釋克啓* 録音場所:円龍寺偲朋堂
偲朋堂での録音音声は残響音が目立ったので、改めて円龍寺本堂で録音しました
* 録音日:2020年2月10日* 読経者:かっけい* 録音場所:円龍寺本堂
重誓偈全文とふりがな
重誓偈本文
我建超世願 必至無上道斯願不満足 誓不成正覚我於無量劫 不為大施主普済諸貧苦 誓不成正覚我至成仏道 名声超十方究竟靡所聞 誓不成正覚離欲深正念 浄慧修梵行志求無上道 為諸天人師神力演大光 普照無際土消除三垢冥 広済衆厄難開彼智慧眼 滅此昏盲闇閉塞諸悪道 通達善趣門功祚成満足 威曜朗十方日月戢重暉 天光隠不現為衆開法蔵 広施功徳宝常於大衆中 説法師子吼供養一切仏 具足衆徳本願慧悉成満 得為三界雄如仏無碍智 通達靡不照願我功慧力 等此最勝尊斯願若剋果 大千応感動虚空諸天人 当雨珍妙華
重誓偈ふりがな
がごんちょうせがん ひっしむじょうどうしがんふまんぞく せいふじょうしょうがくがおむりょうこう ふいだいせしゅふさいしょびんぐ せいふじょうしょうがくがしじょうぶつどう みょうしょうちょうじっぽうくきょうみしょもん せいふじょうしょうがくりよくじんしょうねん じょうえしゅうぼんぎょうしぐむじょうどう いしょてんにんしじんりきえんだいこう ふしょうむさいどしょうじょさんくみょう こうさいしゅやくなんかいひちえげん めっしこんもうあんへいそくしょあくどう つうだつぜんしゅもんこうそじょうまんぞく いようろうじっぽうにちがつしゅうじゅうき てんこうおんぷげんいしゅかいほうぞう こうせくどくほうじょうおだいしゅちゅう せっぽうししくくよういっさいぶ ぐそくしゅとくほんがんねしつじょうまん とくいさんがいおにょぶつむげち つうだつみふしょうがんがくえりき とうしさいしょうそんしがんにゃくこっか だいせんおうかんどうこくうしょてんにん とううちんみょうけ
重誓偈(三誓偈)とは
重誓偈は阿弥陀仏の誓い
重誓偈(じゅうせいげ)は『仏説無量寿経』の中にある法蔵菩薩の偈文。
阿弥陀仏は法蔵菩薩という名で修行され、あらゆる人びとを極楽浄土に救いとる48の願いをたてられました。
48の願いを師の世自在王仏に申し上げた後、その願いを重ねて3つの要点にまとめ誓われたことから、「重誓偈」といわれます。
三誓偈や四誓偈とも
重ねて誓われたことから重誓偈なのだが、浄土真宗では三誓偈(さんせいげ)、浄土宗では四誓偈(しせいげ)ともいわれる。
浄土真宗では冒頭から3度繰り返される「我建超世願~誓不成正覚」をもって、3つの誓いから三誓偈とし、浄土宗では冒頭の3つの誓いと最後の「斯願若剋果」をもって、4つの誓いから四誓偈とすることもある。
重誓偈の現代語訳
現代語に訳しました
* 私、法蔵菩薩は、世にすぐれた四十八の願いを建て、人びとはかならずこの上ないさとりをひらきます。もしこの願いが成就しないならば、誓って私は仏(阿弥陀仏)になりません。 * 私はこの先いつまででも大いに智慧・慈悲を施す主となって、苦しんでいるあらゆる人びとを救います。もし一人のこらず救えないならば、誓って私は仏になりません。 * 私が仏道を成就したならば、私の名前(南無阿弥陀仏)はあらゆる世界の隅々まで響きわたります。もしこのお念仏の声が人びとに届かないのであれば、誓って私は仏に成りません。
欲望を離れ、心静かに正しく真理を求め、浄らかな智慧や清浄な修行をつとめ、この上ない覚りを求めて、あらゆる天人の師となります。
はかり知れない力で大いなる知恵慈悲の光をおしひろめ、際限なくあらゆる世界を照らし、3つの垢(むさぼり・怒り・愚かさ)を取りのぞき、人びとの厄難を救います。
智慧のまなこを開き闇をなくし、多くの迷いの悪い道から、さとりの世界へと導きます。
あらゆる功徳を完全に満たし、そのすぐれた輝きをあらゆる世界にまでいきわたらせます。仏の光は優れ、太陽と月の輝きは見えなくなり、天界の光さえも隠れます。
あらゆる人びとのために仏の教え(仏法)を説き功徳の宝をひろく施し、いつも人びとの中にいて、獅子がほえるように法を説きます。
あらゆる仏さまを供養しさまざまな功徳をそなえ、願いと智慧をすべて満たし、人びとが苦しむ世界で最もすぐれた仏に成ります。
仏の何ものにも遮られることのない智慧の光がどこまでも照らしつくすように、私の功徳智慧もこのような最も優れた仏のようになることを願います。
もし私がたてたこの願いを成し遂げることができれば、あらゆる世界がそれにこたえて感動し、虚空世界のさまざまな天人は素晴らしい花を雨のように降らすだろう。
かっけい訳
ラジオの補足
浄土真宗が般若心経を読経しない理由は、次の記事にて説明しました。
浄土真宗の日常勤行である正信偈の読経音声ものせます
https://kaxtukei.com/sinnsyuuhannyaosie-blog
https://kaxtukei.com/shoshinge
English version page Chant “Juseige”: Shorter than the Heart SutraTue, 11 Feb 2020 - 6min - 386 - 28.仏教の言葉 / 他力本願や密葬のように本来とは異なる意味で言葉が広く使われる
第28回目のラジオ配信。「言葉の意味」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし(クリックで展開)
お坊さんの言葉と言いますか、仏教の言葉はあまり知られていないような気もします。正しく言うと、言葉そのものは知られていても、本来あった言葉の意味が知られていないということです。
例えば、他力本願が誤用の代表例としてよく使われていますね。
「他人まかせ、他の人の結果次第」という意味で、他力本願が使われていますが、実際には、違います。
本来の意味は、「自分の思いをこえた、仏さまの働き。あらゆる人を救うと誓われた、仏さまの悲しいまでの本当の願い」が正しい意味です。
仏教の言葉の意味を知るときのコツの1つは、逆の言葉を考えてみるといいですよ。
例えば、他力本願があるなら、自力本願があるでしょうか。ちょっと考えてみてください。
正確に言えば、本願とは、仏さまだけが使える本当の願いなのですが、今では、一般の人でも本願を使ってしまっているので、自力本願でも無理やり意味をつけることはできるのですが、本願を正しい意味で使えば、自力の本願なんてないことがわかります。
ほかの例で考えてみましょうか。
浄土真宗には「極楽往生」という言葉がありますね。極楽に往生とはどんな意味かを知りたいなら、これを逆にしますとイメージしやすいかもしれません。つまり極楽往生の逆は「極苦往死(ごくくおうし・ごっくおうし)」になります。
往死は往生と違い、生まれ往くのではなく、死んで往くこと。極苦は死んでいくのは極めて苦しい世界のこと。極苦往死は極めて苦しみある世界に、死んでいくことを意味します。つまり極楽往生とは、極めて楽な世界に往きて生まれるんだなあとなんとなしに言えるのです。
言葉を逆にすれば、なんとなしに仏教の言葉の意味が分かることもあるのですが、中には、知っておかないと分からない言葉もあります。
ひとつクイズを出すので考えてください。
無学とはどんな意味でしょうか。「無い」という漢字と学問の「学」の熟語です。
無学と反対が「有学」です。「有る」という漢字と学問の「学」の言葉です。
無学の意味は、自分には学が無いからと謙遜している言葉でしょうか。
有学の意味は、自分には学があるからと、努力・才能にあふれた人だという意味でしょうか。
これは知らないと答えられないと思います。
仏教の意味では、無学は学なし、学ぶことを終え、学ぶ必要が無い状態のことをさします。つまり仏さまや悟りの境地に至った菩薩のような人に使われる言葉です。
一方で、有学は学あり、学ぶことがまだある人のことを言います。つまり自分のことをへりくだって謙遜する時は、「有学ながら」となります。
自分は無学です。といったら、どんな偉い人かと思われてしまいますね。
ちなみにお坊さんが、学のない自分のことを謙遜して言うときの言葉は、「浅学ながら」と、学が浅いという言葉を使います。
さて最近では密葬が本来あった言葉とは、違った意味で葬儀の場で使われるようになりました。こっそりと内々で身の濃い人のみでする葬儀のことを「密葬」だと今では使われています。
密葬にて葬儀を済ませましたので、香典云々は必要ありません。なんて、挨拶が使われたりしますよね
しかし密葬の元々の意味は、本葬の前にする葬儀のことをさします。つまり密葬をする場合、必ず後で、本葬もするのです。
葬儀は、本葬のみをするのか、それとも密葬+本葬をするのかになります。密葬だけというのはありません。
密葬とは、本葬という正式な葬儀をする前に、事前に、身の濃い人たちが集まり葬儀をする仮の葬儀です。
少ない人数でするとか、費用を抑えるとか、質素な簡素なとか、こっそり人に知られずという意味ではありません。
実は、私の属する宗派、真宗興正派では、つい先月、前の門主、宗派の前のトップといえば分かりやすいですかね。その人物の密葬がありました。
本山の阿弥陀堂というお堂で、役職者や門主の家族などが集まって、厳かに行われました。もちろん宗派に属する寺院すべてに密葬の日時・場所が伝えられていました。
そして今度の2020年2月3日に、本葬がまた本山の阿弥陀堂でおこなわれます。
今度は、一般の人もどなたでも参列できますし、各宗派の門主らも焼香に参列するなど、賑々しい葬儀になることでしょう。本山興正寺のホームページでも本葬のご案内がされています。
密葬をするなら本葬もする。これが正しい使い方です。
言葉というのは、常に変化していきますので、今広く使われている言葉の意味の方が大事だと考える人もいるでしょう。
しかし音の響きや漢字からのイメージだけで、言葉の意味を使うのはいかがなものでしょうか。
例えばこの10年ほどで、家族葬(かぞくそう)という言葉がぽっと火のついたように流行りました。もともと無かった造語ですし、お坊さん的には好きになれない言葉でしょう。
というのも家族がしない葬儀というのは、よっぽどのことがない限り存在しないからです。じゃあ家族葬は家族だけの葬儀かと言えば、20人未満の小規模の葬儀であったり、近所や自治体や勤めている会社に知らせないこっそりとする葬儀のことであったり、香典をいただかない・帳場を立てないことであったり、お通夜をしない葬儀だったりなどを、家族葬と好きかって言っているようです。
言葉の意味をなんとでも都合の良いように変えているのです。
テレビに出るような有名人が「家族葬」という言葉の葬儀をするようになって、ますます家族葬という言葉が独り歩きしています。
2019年にはジャニー喜多川という人が亡くなりましたね。自分の事務所タレント150名ほどが参列する葬儀のことを、「家族葬」だとして葬儀をしましたね。それって家族葬なのでしょうか?
私の住む近くには、昨年から「邸宅家族葬」の看板がある建物ができました。
なんていうことはないです。とある葬儀社が空き家を買い取って内装きれいにして、そこを葬儀会場としているだけです。それを邸宅家族葬と響きの良さそうな言葉にしただけです。
見た目はただの一軒家で葬儀をするだけですので、自宅でするのと何ら変わりません。ただ邸宅と立派そうな名前がついて、家族葬とこじんまりとこっそりと葬儀ができそうな印象があるだけです。
言葉の意味はどんどん変化していきますし、新しい言葉もどんどん造られます。しかし音の響きや文字だけを見て判断するのではなく、それがどんな意味で使われているのか、使われていたのかも知ることが大事だと思います。
浄土真宗では南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)という言葉を使い口にしますが、なぜこの言葉を大切にするのか、この言葉の意味はなんなのか、どうしてナムアミダブツなのかということ...Tue, 28 Jan 2020 - 10min - 385 - 27.病室で念仏を唱えないで / 僧侶が黒い衣を着て病院に行くことはありえないことだろうか
第27回目のラジオ配信。「病院・病室とお坊さんの姿」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
2020年1月は医療ドラマが6本もあるようです。
医療系のドラマは俳優が豪華で、話も一話完結しやすく、最終的には患者を救うという結論に落ちついて、手堅い視聴率がとれるからだそうです。
で、TBSテレビが、金曜ドラマとして1月17日から『病室で念仏を唱えないでください』という面白いタイトルの医療ドラマを始めました。金曜日の夜10時です。
今回は、このドラマをテーマに話をするのですが、第1話放送からまだ1週間もたっていないので、録画をまだ見ていない人もいるでしょう。
ネタバレをしたくはないので、このドラマタイトルから感じることを、お坊さんの私がしゃべっていきます。
ちなみにドラマの大雑把なストーリーは、僧侶であり救命救急医の主人公が、病院で患者を救いながら、生きること死ぬことの答えを見つけようとしている内容です。
さて皆さんはどう感じますか。お坊さんと病院の組み合わせってありえないでしょうか。
たぶん多くの人は、「お坊さんが病院・病室にいたら、縁起が悪い。念仏を唱えるなんて、もってのほか」と答えることでしょう。
実はこのドラマタイトルは、「お坊さんあるある」の言葉です。
でももっと正しく言うと、『病室で念仏を唱えないでください』ではなくて、『病室で念仏を唱えるな』になります。お願いではなく、禁止です。
いつごろか、はっきりとは分かりませんが、いつのころから、お坊さんはお坊さんのかっこで、衣を着た僧侶の姿で病院・病室に行けなくなりました。
聞くと戦前は、まだ病院にお坊さんがお坊さんの姿で行けたそうです。今みたいに、大きな病院・国立の病院ではなく、開業医、いわゆる町医者ばかりだったようです。
顔なじみの人ばかりですので、お寺さんも来たということで、病院・病室にお坊さんがいても何もおかしくなかったのです。
それが戦後になって、お寺の人間は、お坊さんの姿で、病院には行けなくなりました。
今、もしもこのテレビドラマのように、黒い衣を着て、袈裟を首からかけて病院の中に入ろうとしようものならば、立ち入りを拒否されることでしょう。
『病室で念仏を唱えないでください』ではなくて、『病室で念仏を唱えるな』が正しいところです。
黒い衣や念仏は、死を連想するのか縁起が悪いとされるのか、病院から敬遠されるのです。
ここまでの話をきいて、「僧侶のカッコをして、病院に来るなんて非常識」、「お坊さんのパフォーマンスだ」と思うことでしょう。
いえいえ、この黒い衣と袈裟こそ、お坊さんの正装なのですよ。失礼のない姿なのです。
黒い衣と袈裟のあの姿をすれば、お坊さんはどこにでも行くことができます。
皇居の中も入れます。園遊会のようなかしこまった会にも参加できます。国会にも入れます。
当然、各省庁や役場にも行けます。
それこそ知事や大臣に、要望書・意見書を出すときは、お坊さんはきちんと、黒い衣と袈裟を着けますよね。あれはパフォーマンスではなく、お坊さんにとっての正装だからです。
あの姿で行くのが失礼のない姿なのです。
実は結婚式でも、お坊さんはスーツではなく、衣と袈裟を身に付けるのが正装です。
病院だけですよ。お坊さんが黒い衣と袈裟を身につけて、入ることができない場所は。お坊さんにとっての正装がダメだ・来るなとされるのです。
不思議でしょう。
ドラマでは、僧侶である主人公が、お坊さんの姿のまま救急救命室に入る場面があります。しかし現実にはそんなことは許されていません。
一方で話変わると、最近では、「ビハーラ僧」というお坊さんもいます。あまり聞きなじみのない言葉かもしれません。職業名っぽく言えば「臨床宗教師」、別の表現をすれば、お寺ではなく病院で宗教活動をするお坊さんということです。
しかしこの人らも、お坊さんのカッコをしません。スーツや普段着の上に、ちょっと暗めなガウンを羽織ったり、あるいは作務衣のようにお坊さんの作業着を着たりします。
数珠や袈裟は身に付けません。
医療の現場にも、お坊さんが進出することはあっても、お坊さんであることをはっきり示すカッコにはなれないのです。お坊さんにとっての正装であったとしてもです。
私は以前、「お寺には若者が来ない。」「どうすれば若者がくるだろうか」というテーマでブログ記事を書きました。
すると、あるお坊さんがtwitter上で、「なぜ若者が寺に行かないといけないんだ。狭量(きょうりょう)がない坊主だ」とシェアされ、ある程度リツイートされました。
私はtwitterをやらないので、そのツイートにお応えすることはできなかったのですが、浄土真宗僧侶の私は、今でも若者ができるだけはやく寺に来るべきだと考えます。もっと正確に言うと、元気なうちに、まだいつ死ぬとも想像できないような時にこそ、仏法に出あうべきだと考えます。
現在、医療の現場では、ビハーラ僧侶がお坊さんとして活動できる程度です。それ以外だと、たとえ正装でも、お坊さんは僧侶の姿で病院に行くことができません。
ビハーラ僧侶に求められるのは、緩和ケアです。病による痛みや苦しみを医療行為によって治療するのではなく、どうにかして和らげ寄り添っていくかです。要は死を迎えるためのつなぎです。
医療の現場では、お坊さんは僧侶の姿で行くことができません。
現代では仏教が死んだ後での話、お坊さんは死んだ後に世話になることだと思われているのか、病院にお坊さんがいたら、ここにあなたの用事はありませんよという態度をとられるのです。
しかし仏教、特に浄土真宗は生きているときにこそ、大切な教えなのです。大病を患ったり、体が不自由になったり、介護を受けなくてはならなくなってから、「なんでだ。どうしてだ」と愚痴ばかりになってからすがる教えではありません。
しかし現実には、そのように思われていません。若いうち、元気なうちは、宗教なんて関係ない。お坊さんの姿は見なくてよい。となっています。
『病室で念仏を唱えないでください』というタイトルは、ドラマだから皆さん何気なく受け入れて見ていますが、これが現実にあれば、この病院や僧侶は非難ごうごうでしょうね。
毎週金曜日の夜10時からTBSテレビが放送しています。今週1月24日は、第2話です。興味があれば見てはどうでしょうか。
ビハーラとは
ビハーラの意味
ビハーラは、サンスクリット語の「Vihāra(ビハーラ)」のことであり、日本語では「精舎(しょうじゃ)」と訳されます。
Tue, 21 Jan 2020 - 9min - 384 - 25.賽銭の意味 / 浄土真宗の寺では賽銭箱がないことがある
第25回目のラジオ配信。「賽銭」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「賽銭」の内容まとめ
* 賽銭は願掛けをするためのお金ではない* 賽銭は賽の河原の銭金でもない* 賽銭の意味は神仏へのお礼である* 賽銭箱があると賽銭泥棒を招きやすい* 浄土真宗の寺では賽銭箱を置かないこともある* 賽銭の平均金額はよく分からない* いくら賽銭をするかは人それぞれ
音声の文字起こし
皆さんは、年末年始にお寺に行かれましたか?
今年は令和初の正月ということで、有名な寺社仏閣では初詣・三が日参りの人が多かったそうです。例えば、三重県の伊勢神宮はここ6年で最多の56万人だったそうです。
私の住む香川県の「こんぴらさん金刀比羅宮(ことひらぐう)」や「おだいしさん善通寺」も、まだ発表されていませんが、例年通りなら約50万人と20万人ほどの参拝者がいることでしょう。
私のお寺では、毎年正月三が日には、お天気の良い年であれば、50名弱の人がお参りに来られ、手を合わします。
しかし私のお寺には参拝記念となるものが何もありません。
その理由は、私のお寺が浄土真宗寺院だからです。
浄土真宗のお寺は他の仏教宗派と違い、お寺にお参りする回数やどこにお参りしたとか、どんな記念品を貰ったとか全然気にしないのです。
例えば、世界遺産の京都の西本願寺を思い出してほしいのですが、西本願寺は拝観料をとらないですよね。浄土真宗のお寺は拝観料をとらないのが、特徴です。駐車料金もとりませんよね。
それはどなたでも自由にお寺に・お堂の中にお参りしてほしいからです。
小さな末寺から大きな本山にいたるまで、お参りに来た人に対して、お金をいただかないのが浄土真宗です。
で、よくお参りに来た人にこんなことをいわれます。
「どうしてお賽銭箱を置かないのですか?」「何か参拝の記念になるものがほしい」と言われました。
要望があって、私の寺では、この大晦日と正月三が日だけは、本堂の縁に賽銭箱と焼香用の机を用意しています。お焼香用の線香やマッチは寺が用意しているので、だれでも気軽にお焼香できます。
そして1月4日には、賽銭箱とお焼香箱を片付けます。
お参りされる人の中には、「どうして1年中お賽銭箱と香炉を設置しないのですか」と尋ねられます。置いておけば、お寺の護持金として少しは役に立つんじゃないのとのことです。
たしかに浄土真宗以外のお寺では、よく賽銭箱をおいています。
たくさんの人が訪れる観光寺院では、びっくりするほどの金額が賽銭料として得られるでしょう。
でも私の寺では置きません。それには理由があります。
* 泥棒が出て、治安が悪くなるから * 間違った意味で賽銭が使われるから
1.神社にも賽銭箱がありますよね。私の近くにもたくさんの神社・お宮さんがあります。
あってはならないことですが、賽銭箱があると、かならずそれに対して「いたずら」をする人が出てきます。いわゆる「賽銭泥棒」ですね。
賽銭泥棒をする人は、まるで自動販売機の釣銭を確認する人のように、いたずらをするのが癖みたいになっています。
あるわけもないのに、毎夜毎夜、賽銭箱をガチャガチャとして近隣住民を不安にさせます。
対策としてチェーン・鎖をかけても、ガラガラガシャーンと大きな音をたてて、揺らして転がして壊すかのようにいたずらが加速します。
賽銭箱がなければ、そもそもそんないたずらは起こりません。
あるやないやに関わらず、賽銭箱があれば、賽銭泥棒をする人からすれば、いたずらの対象になります。
だから私の寺では置きません。
2.賽銭箱は何のために設置するのか。賽銭箱は免罪箱や願掛け箱ではない。
浄土真宗では亡くなった人に、護り刀や六文銭を供えません。死んだ後、必要ないからですね。賽銭の間違った意味として、賽の河原を渡る銭金と思う人がいることです。
浄土真宗では必要のないものですが、地域や宗派によっては、葬儀の時に遺体に六文銭や少額のお金を添えることがあります。
賽銭箱に生前の功徳として銭金を払っているつもりかもしれませんが、阿弥陀仏の浄土に生まれるための功徳として、必要ないことです。阿弥陀仏がまちがいなく阿弥陀仏の極楽浄土に連れて行って下さるので、賽銭など入りません。
また健康になりたいとか、お金持ちになりたいとか、交通安全や合格祈願といった願掛けにも使いません。
というのもこれらも浄土真宗の教義に合わないからです。占いや願掛けをしたくなるのが人情かもしれません。しかし当たるかどうかも分からないことに対して一喜一憂し生きていくのは、浄土真宗らしい生き方ではありません。
浄土真宗のお寺では、私の願いを仏様に聞いてもらう場所ではなく、仏さま・阿弥陀さまの願いを聞く場所です。
浄土真宗は迷信にとらわれない生き方をします。それは自分に降りかかる良いことも悪いことも、そのままの事実として受け入れていくからです。
もし浄土真宗のお寺で願掛けして、受験が合格したり、病気が治っても、それはまた別の要因でなっているのです。
願掛けをしても、その帰りに事故に遭う人だっています。
賽銭を置かない理由を2つ言いましたが、実は私の寺でも賽銭箱を置いていた時代があります。その時は、本堂の中に設置していたそうです。
昔は神仏習合といいますか、お参りする人が、神様も仏さまも等しく同じように手を合わせてきました。
聞くと、私の寺でも昔は、本堂にお参りしていた人が、小銭を仏さまの安置している空間の方に投げ入れていたようです。箱とか何もなくても、投げ入れていたとのことです。
で、昔のお寺ですので、床の板は隙間が大きく、小銭が挟まります。それを後から拾うのが小僧さんの仕事だったそうです。隙間から床下に落ちてしまうのも多かったそうです。
仏様に向かってお金を投げるということがあって、お金をいれる箱、平たく言えば「賽銭箱」を本堂の中だけに設置したそうです。
でも今では設置していません。
というのも、浄土真宗では賽銭箱を必要としないということは多くの人が知っていますし、お焼香をされる時やお参りをされた時に、冥加料やおロウソク料として、お寺の護持金をつけてくださります。わざわざ賽銭箱を設置する必要がないのです。
それにかつて本堂の中に設置していたお金を入れる箱は今もあるのですが、その箱の上部がスパッと割られています。どうして割れているのかは分かりませんが、綺麗に割れていることから、だれかが工具を使って無理に開けようとしたのではないのかなあと想像しています。
Tue, 07 Jan 2020 - 14min - 383 - 24.あん餅雑煮 / 白みそ仕立お雑煮にあんこ入りの餅をいれるのが香川の正月郷土料理
第24回目のラジオ配信。「あん餅雑煮」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
あんこ入りの餅「あん餅」を雑煮にする
音声の文字起こし
正月に食べる香川県の郷土料理とはなんでしょうか。
香川県と言えば讃岐うどんが有名ですが、あれは年がら年中たべるので、別に正月限定の食べ物ではありません。
香川県にはかつて、「讃岐三白」と言う名産品がありました。讃岐三白とは「塩・砂糖・綿」の白色の特産品のことです。でも現在では、和三盆という形で砂糖が残っているぐらいです。
私が大学に行って初めて知ったことのひとつに、「あん餅雑煮(あんもちぞうに)」が全国的にぜんぜん知られていない食べ物だったことです。
生まれも育ちも香川県の私にとっては、あん餅雑煮が当たり前のような食べ物でしたが、どうやらこれは香川の郷土料理のようで、あまり知られていないようでした。
あん餅雑煮と聞いて、どんな食べ物かすぐに想像つきますか?
要は、白みその雑煮の中に、餡子(あんこ)を包み込んだお餅をいれる食べ物のことです。トッピングに大根やニンジンやかつお節や小ねぎやあおさなどをのせたりしますが、トッピングは無くてもOKです。
大事なのは、白みそ仕立ての雑煮の中に餡餅をいれることです。餡餅とは、あんこが中に包まれている餅です。
和菓子や大福では餡子を中に入れるのは普通でしょうが、餡子が入ったお餅と言うのはひょっとしたら珍しいのかもしれません。でも香川県では「雑煮=あん餅の入った白みその雑煮」なのです。何も手を加えていない普通の餅は、雑煮の中に入れません。
私が大学にいた時に、餡餅雑煮の話をしたら「そんな甘いの食べられるわけがないじゃない」とバカにされたように言われました。
で実際に食べてもらうと、「すごくおいしい」と絶賛する人と、「思った通り、甘くて食べられない」人とに別れました。
香川県民の私からすると、お餅に餡子が入っているだけでも美味しく感じるのですが、そう思わない人もいるようです。
でどうして、あんもち雑煮が香川の郷土料理と言えるのでしょうか。
餡餅雑煮の由来について1つの説を紹介します。香川のお年寄りがよくする話です。
かつての香川の特産には、讃岐三白がありました。塩や砂糖は藩に納めなければならず、自分たちの口には入ってこない。
普段は食べられなくても、新年を祝うお正月だけは贅沢したかった。
だから正月に食べる雑煮に白みそを溶かすことを考え出した。
白みそを溶かすと、雑煮の中身が見えにくくなる。すると白いお餅をいれても分かりにくくなる。
さらにお餅の中に餡子を隠しいれることで、砂糖も気づかれずに食べることができる。
これが餡餅雑煮が香川県の郷土料理といわれる由縁です。
庶民の人がちょっとした贅沢をお正月の時だけにでもしたかったので、お餅の中に餡子を包み、そして白みその雑煮の中に入れた。こういう食べ物です。
今でもそうだと思いますが、香川の人は甘いものが大好きです。江戸時代に考案された食べ物らしいですが、現代でも愛されている食べ物です。
本当に美味しいのでおすすめします。
私の家でも正月一日にはあんいり雑煮を食べます。わざわざお餅の中に餡子をいれて食べるのですが、一年にこの時しか食べないので、なかなか上手に作れません。
餡子をお餅の中に綺麗に入れるのが難しいんですね。手作りすると、たいてい、餡子がはみ出してしまい餅の中に隠すことができません。
一番最初に、餡餅雑煮を考えた方は、きっと手先が器用だったのかなあ。あんこ職人あるいは和菓子職人だったんじゃないかなと勝手に想像します。
ちなみに香川の餡餅雑煮を手っ取り早く食べたい場合は、白みそ雑煮の中に、餡子とお餅を別々に入れても大丈夫です。無理に餡子を餅の中に入れる必要はありません。
あと、香川県に来れば、一年中「あん餅雑煮」を提供しているお店がいくらかあります。インターネットで調べればすぐにヒットすると思いますので、香川県に観光に来た時に、寄ってみてはどうでしょうか。
最近ではテレビの影響もあってか、あん餅雑煮も全国的に知られているようです。
でもご門徒さんにお餅屋さんがいらっしゃって、「あん餅は昔と比べてどれくらい売れているのですか?」と尋ねてみると、「半分の半分の半分以下しか出ない」と嘆いていました。
昔と比べて、甘い食べ物があふれていて、手間をかけてあん餅雑煮を食べる家が減ったとのことでした。
そこで私はそのお餅屋さんに、「あん餅雑煮意外に、他に食べ方がありますか」と質問してみると、面白い食べ方を紹介してくれました。
なお先に言っておきますが、私がおすすめしているのではありませんよ。そのお餅屋さんが「こんな食べ方もあるよ」と提案してくれたのです。
1つ目は、おでんにいれるんですって。おでんの具材におあげの巾着がありますよね。その巾着の中身をお餅からあん餅に入れ替えたら美味しんですって。
2つ目は、鍋にいれるとのことです。鍋って途中でお餅をいれるでしょう。そのお餅の代わりにあん餅をいれたらいいんですって。食べ方はお餅と一緒だそうです。
餡子が溶け出して出汁の味がメチャクチャにならないか聞いてみると、お餅は大福と違うから、煮ても崩れることなく中の餡子が溶け出ることはないと言います。
でもなんか失敗しそうで、私はまだチャレンジできていません。
お餅屋さんはあん餅を売らないといけないから、すすめてくださるんでしょうが、作る分にはちょっと勇気がいりますね。
最近では「年明けうどん」というのが、香川県の讃岐うどん業界が、流行らせようとしているようです。
「年越しうどん」ではなくて「年明けうどん」ですよ。
今年2019年の12月78日にも、高松市で北海道から沖縄までの日本各地のご当地うどんの大会があって、年明けうどんを流行らせようとしています。
年明けうどんなんて、今まで言っていなかったと思うんですよ。だって香川の人は食べる時にはうどんを食べるんですから。
年をまたぐときの年越しそばが全国一般的に知れ渡っているように、新しい年になったらうどんを食べようと広めています。
ちなみに年明けうどんの定義はシンプルで、元日から1月15日にまでに食べるうどん、プラス、赤色の具材が使われていたらいいとのことです。
また香川県も変わったことをしているなあと、ニュースを聞いていると、その12月の全国年明けうどん大会で香川が出した讃岐うどんが衝撃的でした。
Tue, 31 Dec 2019 - 10min - 382 - 23.寺社仏閣と石段 / お寺や神社にはなぜ段差があって大変な思いをして上るのか
第23回目のラジオ配信。「お寺の石の階段」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
石段のある理由
* 神や仏は見上げて拝むから* 自然と頭が下がってお参りするため* 敬うという気持ちを持つため* 山に入るつもりで身を引き締めるため
音声の文字起こし
先日12月12日に、自坊のお寺で報恩講法要がありました。お参りされる人は若い人が少なく、歩くのが辛いお年寄りばかりです。
お寺では椅子を用意して、読経・法話のときの負担を減らしているのですが、なかなか本堂に上がるまでの石階段を登るのがしんどそうです。
お参りされた人から「どうしてお寺や神社は、こんなに段差がきついのですか?」と質問されました。
実際私のお寺、円龍寺の本堂前の石段を見ると、およそ25センチメートルの高さの段差でした。ほんの4段なのですが、年を取ると辛そうです。
さて皆さんはどう感じますか?お寺や神社に行かれた時に、段差があって苦労したなあという経験がありますか。
例えば私の住む香川県で、一番有名な観光名所は、琴平町にある「こんぴらさん」です。この神社は、ふもとから本宮まで「悩む」で覚える「786」の石段があります。
結構な数の石段でしょう。奥の院までだと1368段まであるとされます。数えたことがないのでほんとかどうかは知りませんが。
さてどうしてこんなに段差があるのでしょうか。
きっと多くの人が、「そりゃ神社が山にあるんだから、階段が増えるのは仕方ないだろう」と答えるでしょう。
でもこんぴらさんは明治の神仏分離令まで、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)をまつる神社だったんですよ。そしてその金毘羅大権現は、伝説上、多度津の港の近く、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)横の桜川で上陸したとされます。
それがどういうわけか、10キロメートル以上離れた山の上でおまつりされるようになっているんですよ。
不思議ですよね。
どうしてわざわざ段差を増やしてお参りするんでしょうか。お参りするのが大変なのにね。ちなみに上陸したところにある金刀比羅神社は約10段ほどの石段です。また金毘羅大権現は、海上交通の安全を祈願する神様となっています。なおさら船乗りがお参りしやすい海のそばが良いと思うでしょう。
でも実際には、しっかりと歩かないとダメな場所に神社があるんですよね。
石段が多い答えを言いますと、神さまや仏様にお参りする時に、自然と頭が下がるようにするためだとされます。
「な~んだ、そんなことか」と思われる人も多いでしょう。
でも実際、こういう石段の配慮がないと、人は簡単に神さまや仏様を見下ろしてしまうんですよ。
最近、大きな仏壇から小さな仏壇に変える家が多くなりました。私もお参りすることがありますが、仏様を見下ろすような位置に仏壇を置く家がけっこう多くあります。
本人は見下ろすつもりはなくても、つい見下ろしてしまっているのです。段差が必要なさそうな平地にある神社やお寺でも、ちょっとばかりの段差があるのも、その階段を上る際に、少しでも頭を下げるようにという思いから、段差をもうけているのです。
「頭を下げさせるために、登りにくい段差をわざわざ作るなんて性格悪い」と思う人もいるかもしれません。
しかしそうでもしないと頭を下げることができないのが人間だとも言えます。また頭を下げることが、相手に対して敬うという姿を示すということでもあります。
例として、茶道の世界から茶室を紹介します。
茶室の入り口をご存知でしょうか。お茶を振舞う主人はふすまから立って部屋に入りますが、客人はどうですか。
茶室の建物の外に用意されている、約70センチ四方ほどの小さな入り口から身をかがめて入らないといけません。
この入り口は「躙り口(にじりぐち)」と呼びます。にじるとは、正座をした状態のままずりずりと膝をすって中に侵入するという意味です。
躙り口があり頭を下げると自然と、相手に対して、お茶をもてなしてくださる主人に対して、敬う気持ちや謙虚な気持ちが生まれるのです。
石段や躙り口は、無理やり頭を下げさせられていると思う人もいるかもしれません。しかし見方を変えれば、これがあるおかげで、私たちはお参りする度に、常に敬うという気持ちを持つきっかけを得ることができます。
神さまや仏様は尊い存在として、見上げて拝みます。高い場所にまつられるのは、仕方のないことかもしれませんが、その階段を上る際に、「ああ頭を下げないといけないんだなあ」と振り返っていただきたいです。
そしてもう一つ、お寺に石段がある理由を紹介します。
お寺は古くから、山に例えられます。自分の知っているお寺を確認してほしいのですが、多くのお寺は「○○寺」という寺号の他に、「○○山」という山号を持っています。私の寺も金顕山という山号があります。
平地にある寺なのに、なぜ山の名前があるのでしょうか。
それはお寺が、仏法に出あう場所・修行する場所・念仏をとなえる場所といったように、世俗と区別した場所を表すために、山に例えられたのです。
実際には奥深い山に入りはしないのですが、ほんのちょっとの石段をあがるときに、気持ちだけでもお寺に参るときは、これから山に入って仏様に対して手を合わそうという気持ちを持つのです。
お寺に石段があると、年をとっていくとだんだんお参りするのが辛くなるでしょう。だからこそ元気なうちからお参りしてほしいです。またその階段を上る際には、ここから先は神聖な敬う空間なんだなあと感じつつ、頭を垂れて合掌してくれればなあと思います。
ラジオの補足
こんぴらさんとは
「こんぴらさん」とは香川県の中部(中讃)の南に位置する、琴平町にある神社のこと。全国にある金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮となっている。
現在の正式名称は「金刀比羅宮(ことひらぐう)」なのですが元々は琴平神社であり、その後、明治時代まで金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)をおまつりし、現在でも「こんぴらさん」の愛称で広く親しまれています。
現在、こんぴらさんのある琴平町は、現存する日本最古の芝居小屋があるように、年間200万人以上が訪れる香川県最大の観光スポットとなっている。特に正月には50万人以上が訪れます。
* 金刀比羅宮の公式サイト(民謡「金比羅船々」が流れるので注意)* 祭神:大物主神と崇徳天皇(2柱を合わせて「金毘羅大権現」とすることもある)
山に関連する記事
*Mon, 23 Dec 2019 - 8min - 381 - 番外2.円龍寺本堂法話 / 2019年報恩講法要
円龍寺ラジオのエピソード番外2。2019年12月12日に円龍寺本堂での布教使による法話です。「なぜ浄土真宗の寺(円龍寺)が人々に選ばれたのか」がテーマです。
2019, 円龍寺報恩講
お詫び
ラジオの容量を減らすために、雑音が酷い個所などをある程度、編集・削除しています。
法話の補足
本山興正寺
本山興正寺は真宗興正派の本山
本山興正寺は真宗興正派の本山です。
* 宗旨:浄土真宗* 開基:親鸞聖人* 創建:寺伝では1212年とされる* 現在の場所:京都市下京区* 末寺数:450か寺ほど
写真の人物が、法話で紹介された赤い衣の人。本寂上人(ほんじゃく)で真宗興正派の中興の祖。
https://kaxtukei.com/koshoji
法要の最後で読む箱
御文章・お文・御勧章
浄土真宗の一部の宗派では、読経や法話の最後に、箱から本を取り出して読みます。
この本のことを「御文章(ごぶんしょう)・お文(おふみ)・御勧章(ごかんしょう)」などと呼びます。
本願寺の蓮如上人が書かれたお手紙であり、浄土真宗の大切な内容をお伝えする蓮如上人からの法話です。
蓮如(れんにょ)とは
本願寺の第8世であり本願寺の中興の祖
https://kaxtukei.com/obotudankuroihakonani-blog
かっけい
続けて、布教使が最後に読まれた蓮如のお手紙を紹介します
蓮如上人が猟すなどりの人びとにあてたお手紙
猟すなどり章
まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず弥陀如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。文明三年十二月十八日第一帖の第3通『猟すなどり章』より
現代語訳をしました
まず、この浄土真宗の信心の内容は、ことさらに私自身のこころの悪いことや、また正しくない思いやとらわれの心が起こることを、やめなさいというのではありません。
ただいつものように、商売をし、人のもとで働くことをしなさい。必要によっては、生き物を殺し、獣をかり魚をとることなどもすればよろしい。
このように朝から夕まで、浅ましい罪業ばかりに迷い悩んでいる私たちのような人々に対して、「何のようもなく助けるぞ」と誓われたのが阿弥陀仏の本願だと深く信じて、素直な気持ちで疑いの心なく、阿弥陀仏の慈悲の願いを受け入れなさい。「南無阿弥陀仏」と、ただお任せいたしますという一つの信心が阿弥陀仏より頂けたなら、かならず阿弥陀仏がお浄土に生まれさせてくださります。
この上には、どのような気持ちで、お念仏を申せばよろしいのでしょうか。
それは阿弥陀仏のお浄土に生まれさせていただくことが、阿弥陀仏からの信心のはたらきによって達成しているのですから、「有難くも助けてくださった」というその御恩にお応えし感謝するために、私のいのちがある限り、お念仏すればよろしいのです。
このことが、浄土真宗の信心の定まった念仏の人というのです。
1471年12月18日、謹んで書き記しました。あなかしこあなかしこ
浄土真宗が選ばれた理由
浄土真宗のお寺と人々
円龍寺は戦国時代から江戸時代にかけてできた浄土真宗のお寺です。『円龍寺はどんなお寺?』
当時の人びとは、老いも若きもいつ死んでいくのか分からない時代だった。しかし浄土真宗の教え、阿弥陀仏のはたらきは、どのような人々でも必ず救ってくださるものだった。
名前も残らない人々や生き物を殺し日々精いっぱい生きている人々にとって、無条件に阿弥陀仏の働きによってかならずお浄土に救いとって下さることは、自分の人生が意味のある命であったと勇気づけられたのではないだろうか。
布教の先生が最後に「猟すなどり章」を拝読したのは、そのようなメッセージが込められていると思う。浄土真宗のお寺である円龍寺が今現在も残っているのは、そのような阿弥陀仏の救いを頼りお任せした人々が支えてくださったからだろう。
2019年9月の円龍寺秋永代経での法話もリンクします。よろしければお聞きください。
2019年秋永代経法要の本堂法話.番外1円龍寺は香川県にある浄土真宗寺院。毎年9月に秋の永代経法要があります。本山布教使が「阿弥陀仏ってどんな仏様?」をテーマにご法話しました。kaxtukei.com2019.9.10
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「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。
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Tue, 17 Dec 2019 - 49min - 380 - 22.正座椅子とお坊さん / 法事で痺れ対策に正座椅子を使うのはおすすめしない理由
第22回目のラジオ配信。「お坊さんと正座椅子の相性」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
使用した感想を最初に言いますと、正座椅子を使用しての読経は、思ったよりもしんどかったです。お坊さんと正座椅子は相性が悪いと感じました。
ちなみに一か月以上、毎日使い続けてでの感想です。しっかりと使ってみて判断しました。
お坊さんは正座での座り方をするのが基本です。
法事などでお参りに行くと、大抵のお坊さんは正座するでしょう。中には腰かける椅子を持参するお坊さんもいますが、まあ私の知る限り、ほとんどのお坊さんは正座をします。
で私のことですが、私は正座ができないわけではありあません。一時間以上のお勤めでも、ずっと座り続けることができます。
それは正座に慣れているということもありますし、痺れにくい座り方を知っているということもあります。仮に痺れてしまっても素早くたって歩くこともできます。
「じゃあ、正座椅子なんて使う必要なんかないじゃないか」と皆さん思うでしょ。
そうです。足が痺れるという理由では使う必要はありません。
今回、私が正座椅子を使ってみたいと思った理由は、正座をしているときの、足の痛み・膝の痛みを和らげたかったからです。
正座による痺れは気にならないのですが、膝を曲げて全体重を足に預けているこの座り方は、長時間すると足が痛くなります。これは痺れからではないです。
11月12月のお坊さんは朝から夕までお参りをして正座しっぱなしです。夕方になると、数分座るだけで足全体が痛くなります。
そこで正座椅子を買ってみました。正座椅子なら正座が楽になると思ったので。
私が買ったのは、折りたたみができるタイプで、三角形・逆台形の正座椅子です。この音声をのせているブログ記事には使用した正座椅子の写真をのせておきます。
このタイプの正座椅子を選んだ理由は4つあります。
* 生地と中板のみだから、カチッという音が鳴らない* 3秒以内にさっと逆台形に組み立てられる* 折り畳んだ状態だと4センチほどと薄く、カバンにさっと入るし、お経の本と一緒に持って運んでも目立たない* 商品説明によると、組み立てた状態の椅子の高さは15センチであり、座高が高くなって目立つこともないと思ったから
金属やバネを使って、高さを自由に変えられる正座椅子ってありますよね。
あれって便利そうに思えるけど、実際には座る高さなんて1種類あれば十分だし、器具のカチッと鳴る音が法事の席ではけっこう目立つから、あまりおすすめしない。お茶の席なら、もっと目立つでしょうね。
だから生地と中板のみのシンプルなタイプを選びました。
そしてシンプルなタイプだから、組み立てもあっという間です。買ってすぐの時は、どう展開したらいいのか分からなかったけども、今では2秒あれば組み立てられます。
で今から言うことがけっこう重要です。簡単に組み立てられるということは、簡単に折りたたむことができるということです。
慣れると立ち上がりながら、振り向きながら畳むことができます。これはお坊さんの私にとって、けっこうなプラスポイントでした。
逆三角形・逆台形というのもポイントです。
よくコの字型の正座椅子があるでしょう。
椅子の足が2つあって、安定性が抜群に思えるのですが、意外にあの椅子の両足の間に、自分の足を座りながら差し込むのが難しんですよ。それにコの字型の正座椅子は、一度足を差し込んで座ると、足を抜くのが難しくて、急には立ち上がれなくなります。
だから私は逆台形のタイプを選びました。
折りたたんだ状態が4センチほどと薄く、お経本と一緒に持っても目立たないのはすっごくいいポイントです。
折りたたみできない正座椅子は、持ち運びにくいですし、目立ってしまってあんまり気乗りしません。
椅子の高さが15センチと言うのも購入ポイントでした。正座椅子って座高が高いものが多い印象です。高さのあるタイプの方が、体の大きい人でも使いやすいからです。
でもお坊さんからすれば、座高が高いと、正座したときの頭の位置が高く、仏壇前に座っているお坊さん1人がすっごく目立ってしまいます。あまり高すぎない方がいいと思いました。
それら4つの理由を考えて、そして、お参りで使っていたいろんな人の正座用の椅子を試させて頂いて、シンプルで薄い逆三角形の折りたたみタイプを買いました。
じっくり考えて正座椅子を買ったのはいいのですが、冒頭の結論で言ったとおり、お坊さんに正座椅子が合わないことに、後から気がつきました。
お坊さんと正座椅子が合わない理由は2つです。
* 座布団が用意されていること* 身動きがとりにくいこと
正座椅子ってそのまま使うものだったってことに、実際に使ってみてから気がつきました。
でも法事の時を思い出してほしいのですが、どの家でも必ず座布団をお坊さんに出したり、お仏壇の前に置きますよね。
座布団の上に正座椅子をおいて使うのは、変と言うか、難しいです。
正座椅子は畳の上に直置きして使うものでした。
お坊さんに出す座布団って、分厚かったりするでしょう。そこに正座椅子を置くと、けっこう沈んでしまいます。すると足を逆台形の間に挟むことが難しくて、両足で逆台形の正座椅子を支えるようになってしんどかったです。正座する時は別の筋肉を圧迫されて、足の痛みが取れるどころか、別の部分が痛くなりました。
もう一つあります。
お坊さんはお勤めの間に、何度か仏壇に手を伸ばしてお線香やおロウソクのお光を入れ替えたりします。でも着物の間に挟んだ正座椅子に座っていると、なかなか上手く体を持ち上げることができません。
正座椅子に腰かけている分、普段よりも頭の位置が高いため、ちょっと動作するだけで体が大きく揺れるので、ぎこちない動きがなにか格好悪いです。
せかっく家の方が、おもてなしでご用意して下さった座布団なのに、「正座椅子を使いたいので、座布団はいりません」というのもおかしいでしょ。
読経が終わって立ち上がったときに、座布団に正座椅子の型が残っているのも不格好だと思います。
そんな理由で、そもそも座布団を用意して下さっているお坊さんにとって、正座椅子は使い勝手が悪かったのです。
正座椅子は何もない、畳の上で使用して、楽に正座をするためのものでした。
これは正座椅子が悪いのではなく使う場面が良くなかったのです。例えば、お茶やお花といった座布団が用意されていない場合では、役に立つ道具だと思います。
Tue, 10 Dec 2019 - 9min - 379 - 21.お坊さんに拍手しない理由 / 僧侶派遣サービスにより評価される時代になったが私は反対の立場
第21回目のラジオ配信。「お坊さんへの拍手(評価)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
最初に「ニックネームは俊」さんにお礼です。私のポッドキャストに初めてコメント・評価をしてくれた方です。
良き出会いに感謝毎回、楽しみに拝聴しております。10分間の短い時間ですが、本当に心地よい学びの時間を得ることができております。有り難うございます。ニックネームは俊
こちらこそ、ありがとうございます。これからもご縁ある時に、ぜひ聞いていってくださいな。
さて、先週11月26日の新聞を見ていますと、面白いニュースがありました。
タイトルは「どのお坊さんが高評価?」「僧侶の仕事ぶり、顧客が評価」です。
どんな記事内容かと手短かに説明しますと、
葬儀や法要での僧侶の態度や法話などを顧客に採点してもらい、僧侶本人に自省を促す仕組みを、僧侶派遣会社「ユニクエスト」がつくった「てらさぽ」というサービスが始めたというのです。
50点満点で評価をつけてもらい、地域別にランキングを作り、ランキング上位の僧侶には優先的に仕事を任せるとのことです。
こんな点数をつけるシステム・サービスはとっくにしてるんだと思っていたけど、まだやってなかったんですね。
で私の意見を言うと、この評価することに反対の立場です。
その理由は、今日の話のテーマの「お坊さんに拍手しないこと」が関係します。
この新聞記事によると、採点項目は5つあって、
* 清潔な身なり* 親身な対応* 丁寧な話し方* 読経* 説法・法話の内容
これら5つを僧侶派遣サービスの利用者が採点するとのことです。
身なり・対応・話し方を評価するのは、まだ分かりますが、読経・説法・法話に点数をつける、評価をするというのはこれは反対です。
でなんで反対かと言いますと、お坊さんに拍手しないからです。
まあ、お坊さんに拍手しないというのは、浄土真宗のお坊さんがよく言うことで、ひょっとしたら浄土真宗以外の仏教宗派では、拍手は大歓迎なのかもしれませんが。
拍手しない理由は、拍手と言うのが、批評だからです。
音楽会や演劇会を例に挙げると、素晴らしい・感動したと感じると称賛の拍手をするでしょう。いまいちだと感じれば、拍手をしないでしょう。
良いものに拍手して、悪いものに拍手しないのは当たり前でしょうと、思う人もいるでしょうが。お坊さんのすることに対しては、これが当てはまりません。
お坊さんが読経や法話をしますよね。
それを聞いた人が、「いいね。なんて素晴らしいんだ」と拍手するのは、他人事として、作品として、自分と関係ないこととしてしか見えていないのです。
読経とは、仏さまの法を読み聞かさせていただいていること。
法話・説法とは、仏さまの法を話し伝えているだけのこと。
読経・法話・説法に対して、拍手を送るというのは、仏さまのお言葉に対して拍手していることになります。
仏さまの伝える法・お言葉とは、自分が聞いて満足するものではありません。聞いて納得する話がいい話・素晴らしい話ではありません。自分の思いを越えた所から願われているんだという仏さまの法を、読経・法話・説法を通して聞いていくのです。
もしお坊さんがすることに対して拍手をするのであれば、それは仏さまに対して評価・批評することであり、自分にとって都合のいい話だけを讃えるという自己中心的な物の見方から離れることができていないのです。
たとえ90歳を過ぎたカエルを潰したかのように何をしゃべっているのか分からない老人の読経であれ、6歳のたどたどしく読む子供の読経であれ、どちらも同じく尊いのです。
点数なんてつけられないのです。
人間が基準とした他者への称賛の表現は、仏法を説く、法事や葬儀の場では、全く意味を持ちません。
だから拍手をすることはしないのです。点数・評価することももちろんできないのです。
私の死んだ祖父が、こんな言葉を残してくれました。
「法話とは慚愧(ざんぎ)」だと。
法話をするとき、法話を聞くときは、慚愧がなければならない。慚愧の心がない法話は、法話ではない。という遺言です。
慚愧は難しい言葉で、懺悔と混同されることもありますが、違います。
慚愧についてはまた別の機会にお話しできればいいのですが、ここでは簡単に説明します。
慚愧とは、世の中に羞じる(恥じる)こと・自分自身に対して羞じる(恥じる)ことです。
人は自分にとって都合のいいこと。耳心地のいい言葉・態度をしてくれる人は、自分にとって素晴らしいものだと、思い込んでしまう。
でもそれで満足してしまうと、いつまでたっても自分勝手な考え方は変わらないし、自分にとって不都合なことがおきると人に対して社会に対して、文句を言ってしまうようになる。
仏さまの話を聞く、読経・聞法・法話ではその姿勢はダメなのです。
自分自身の思いをふりかえさせてくださる仏さまの話を聞き、自分自身の心の浅ましさをもったいないなあと恥じ、世間に対して恥じる慚愧の心が、大切なのです。
そうでなければ、法事や葬儀をしても、誰かのためにしてやったとか、観客の立場で批評・評価してやったと、仏法を聞いてもいつまでたっても他人事の生き方になってしまうのです。
お坊さんの話に拍手しない理由が分かりましたでしょうか。
もし拍手しようとしたなら、ちょっと待ってみて、自分のための話ではなかったのかと振り返ってみて欲しいです。
そしてそのまま手を合わし、合掌・念仏してくれれば、なおありがたいです。
ラジオの補足、お坊さんへの拍手
お坊さんへの拍手
私は以前ブログ記事で、お坊さんの話に拍手をしてはいけないこと説明しました。
https://kaxtukei.com/preaching-monk-no-handclap
そのブログ記事には、次のことが書かれています。
* 拍手には称賛・賛同といった意味がある* 拍手そのものが良い悪いではない* お坊さんの話に対して拍手するのが相応しくないのだ* なぜならお坊さんの話は仏様の話。仏法だから* 拍手することは仏様に対して批評したことになってしまう* 聞法の最後は拍手ではなく「合掌・念仏・礼拝」
...Tue, 03 Dec 2019 - 9min - 378 - 20.ワインと瓔珞 / ワイン(ぶどう酒)は仏教と縁のない酒と思われるだろうがお経の中に瓔珞とともに登場する
第20回目のラジオ配信。「ワイン(ぶどう酒)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
今、ヨーロッパのバチカンからローマ教皇が来ていますね。
テレビなどでは「すんごい人が来日した。核廃絶の平和スピーチをした。感動した」なんて報道していますね。
でもね、あれとおんなじスピーチを日本の宗教者がしたら見向きもされないですね。全日本仏教会は60年以上前から核廃絶を訴えているのに無視されているからね。
本当にローマ教皇が影響力のある人物なら、核兵器の落とされた国じゃなくて、核兵器保有国や核兵器を落とした国でスピーチして訴えてほしいと思います。
まあ、今日はそんな話をしたいんじゃなくて、先週予告したように、ワインの話をします。
11月の第3木曜日は有名なボジョレーヌーボーの解禁日でしょ。それでワインの話をしたかったのです。
ちなみにワインってどんな飲み物か、知っていますか?
果実を発酵させた酒がワインですね。アルコールの飲み物ですね。
お坊さんの私は、法事のお供えに「お酒やワインやビール」をお供えしてもいいですかと時々、尋ねられます。
どうしてそんなことを聞くのか逆に質問してみますと、「仏教はお酒はダメなんじゃないの?」なんて言われます。
う~ん、たしかにそんな決まりがあるような気もしますが、「飲んだらダメだよ」と言われて、「ハイ!!わかりました!!」と素直な人ばかりでしょうか。
飲まなくて済むなら飲まない方がいいのでしょうが、世のならい・人のならいでは飲んでしまうことの方が多いんじゃないでしょうか。
他の宗派のお飾りは詳しくは知りませんが、浄土真宗の飾りで言えば、あえて、お酒を仏壇に飾る必要はありません。
飾らない理由は、お酒が禁じられた飲み物だからではありませんよ。阿弥陀仏のお浄土は、迷いのない世界・清浄な世界だからお酒が必要ない。だから、わざわざお酒を仏前に供える必要がないのです。
でもお寺に行ったら、ビールやワインやお酒が飾られていることがあるじゃないと思う人もいるでしょ。あれはご用意して下さる人がいるから、仏前にお供えさしていただいているのです。
先祖の法事でも、亡き人の好物を供えたいと言う理由からお酒・ワインとアルコールの飲み物を供えても、それはそれで問題ありません。
さて、ワインと言えば葡萄酒ですね。
実は浄土真宗のお経文の中には、ぶどう酒が出てきます。続けてぶどう酒と瓔珞について紹介します。あんまりお坊さんがぶどう酒と瓔珞について話す機会もないからね。
まず確認ですが、瓔珞って何かわかりますか。瓔珞は仏壇の仏さまに近いところにあって、キラキラと吊り下がっている飾り紐のことです。
仏具という扱いですが、灯りをつけたり手に触ったり持ったりするわけではなく、飾りっぱなしをするそんな仏具です。ですので、あれって何のためにあるのかなあと疑問に思うこともあるでしょう。
元々は、お釈迦さまがいた時の時代、インドの王族や高貴な人が身に付けていた装身具が瓔珞です。
瓔珞は、宝石や玉のデザインをした首や胸などにかける装身具のことで、立派な人のみが着けれていたんですね。
でお経本の話に戻ると、浄土真宗では仏説観無量寿経を大切にしています。この中に、韋提希と言うお妃(おきさき)が登場します。
この人物は牢屋に閉じ込められている王様のために、お妃が身に付けている瓔珞(首飾り)に、ぶどう酒を詰めて、こっそりと王様に食べ物を届けていたことが書かれています。
仏壇にぶら下がっている瓔珞のどこに、飲み物をいれる場所があるんだと思う人もいるでしょうが、よくよく瓔珞を見てください。
ブログ記事から聞いている人は、私のお寺の瓔珞写真を載せておきますので、見てください。
丸っぽい玉や鈴みたいな物がたくさんついているでしょう。あんな所に葡萄酒を隠しいれて運んでいたのです。
観無量寿経では、瓔珞とぶどう酒のそんなエピソードが書かれています。
最終的に韋提希というお妃は、お釈迦さまの前で、自分の地位を象徴していた瓔珞を投げ捨てて、お釈迦様に自分が救われる教えを求めます。
瓔珞は尊い人物、高貴な人のみが身に着けることができた装身具です。修行中の菩薩は瓔珞を身に付けます。でも、仏さまは悟りをひらかれた存在なので着飾る必要はなく、瓔珞は本来必要ありません。しかし仏さまを尊いお方と敬うために、私たちはお仏壇やお寺に瓔珞のお飾りをしています。
2019年11月26日に放送の今回は、ワイン(ぶどう酒)をテーマにお話ししました。
ここで今日の話は一応、終わるのですが、せっかくなので香川大学のワインを紹介します。
紹介する理由は私が香川大学(香大)の農学部出身だからです。それと私が果樹学を専攻していて果樹の研究室にいたからです。
平成18年に香川大学農学部で開発された「香大農Rー1(かだいのうアールいち)」というブドウが品種登録されました。
そのブドウを利用して、香川県内唯一のワイナリーである「さぬきワイナリー」が赤ワインを作っています。毎年ボジョレーヌーボーの翌日に販売されています。
これがけっこうおすすめです。宣伝すると、この香大の赤ワインは通常のワインよりもポリフェノールやアントシアニンが2倍から3倍多く含まれているとのことで、非常に色が濃いです。
私はアルコールの飲み物が飲めないのですが、いつも味見として、一含みだけ口にしています。
ちょっと渋いかなあとも思いますが、それ以上にブドウの濃い味が感じられて美味しいです。それとグラスに赤いワインの汁の跡が残るのがすごいなあと感じます。
私は今年の春に、贈答用としてさぬきワイナリーに直接買いに行きました。生産本数が少なくて、11月12月の時期を過ぎると、酒店にいっても見つからないからです。
ワイナリーの人に聞くと2017と2018は生産量が安定して在庫があるとのことだったので、店頭にあった2017と2018どちらも買いました。飲んだ人に聞くと、やっぱり味わいは微妙に違っていたようです。
ニュースによると今年の瓶詰本数は7000本だそうです。「香大農Rー1」が開発されてから、もう10年以上たつのに、なかなか生産量が増えないんだなあと思ってます。
ちなみにこの前買った2017・2018の香大のワインの底には、オリが沈殿していました。きっとワインの風味を残すために、目の粗いフィルターを使っているんだろうなあと勝手に思っています。オリがあってもワインの出来が悪いわけじゃないから勘違いはしないようにね。
香大ワインの宣伝が長くなりましたね。今日はここで話を切ります。香大のワインは「ソヴァジョーヌ・サヴルーズ」ていう名前で、香川県内の酒店やさぬきワイナリーのオンラインショップで買うことができます。
Tue, 26 Nov 2019 - 11min - 377 - 19.イチョウの紅葉と掃除 / 2019年の秋は暖かく落葉が遅い
第19回目のラジオ配信。「イチョウの木の紅葉2019」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
イチョウってわかりますよね。銀杏(ぎんなん)という実をつける樹木のことです。
落葉樹ですので、霜が降りる秋になると、緑色の葉が徐々に黄色に変化して落ちます。
でも今年の香川はまだ全然落ちようとしません。というのも、香川では昨日観測して以来、最も遅い夏日でした。今までは11月6日が最も遅い夏日。25度以上の気温だったのに、2019年の今年は、11月18日に高松市で26度、多度津町で25.6度でした。
第2回目の放送でも梅雨入り梅雨明けが今まで一番遅かったことを言ったように、今年は半月くらい季節感がずれているように感じます。
実際私も昨日、お参り先で外を歩いていると生暖かい南風が強く吹いていて、暑いなあと汗をかきました。
いつもの年はこの11月になるとお寺の大きな銀杏の木が黄色く色づいて、15日も過ぎれば、毎朝石畳の参道に葉がたくさん散っているのですが、今年はまだまだそんな気配を感じません。
私としてはいつものようにはやく黄色くなってどんどん散ってほしいのですが、山の紅葉の様子を見てもまだ先のようです。
私のお寺は浄土真宗のお寺です。ですのでこの11月12月には、報恩講という法要があります。私のお寺・円龍寺では毎年12月12日に法要をしています。
その12月12日にむけてお寺の境内の掃除をしなければならないのですが、秋のこの時期は落葉が激しいので、心の中でははやく散って欲しいなあと思っています。速く散ればそれだけ速く掃除できますので。
イチョウと言うのは、けっこうやっかいな植物なのです。
イチョウがお寺や学校や公共施設に植えられている理由に、火事にならないでほしいという願掛けと言うのがあります。
もちろんイチョウがあるから火事にならないわけではありませんよ。
イチョウという樹木は水分を多く含んでいるので、焼いてもシューシューと蒸気ばっかりで出て、なかなか燃えてくれません。火に強く焼けない植物なので、お寺のような建物に植えられるのです。
でもこれが掃除の時にやっかいなのです。
ある程度乾いても全然燃えないので、よく燃えるカイズカイブキや松やバベと合わせながら、ちょっとずつ燃やしていきます。これが手間で手間で仕方がないです。
最終的には焼くのが間に合わないので、地面に穴を掘って埋めることになります。
だからイチョウの葉はさっさと落ち切ってくれたら助かるのです。
イチョウは10メートルも20メートルもと背丈が高く伸び、街路樹にもよく植えられています。
それこそイチョウは東京都の樹(シンボルツリー)にも定められていますので、東京に住んでいる人はあちらこちらで、綺麗なイチョウ並木を見ることができますよね。
私も紅葉の時ではなかったですが、夏に東京を行ったときにずら~と並ぶ緑色のイチョウ並木を見てきました。新緑の並木通りも非常にきれいだなあと思いましたが、それと同時にこれを掃除・維持するのは大変なんだろうなあと、お坊さんの私は思いました。
というのもイチョウは生命力が強いのか、どんどんどんどん生長します。頭をはねても、横からどんどん伸びていきます。火事にあって表面がこげても、それでもまだ生えてこようとします。
力強い木なので、根っこがアスファルトや石畳みを押し上げて歩きにくくなります。
私の住む近くの場所に善通寺があって、そこに陸上自衛隊の駐屯地があるのですが、そこにもイチョウ並木があります。自衛隊の赤レンガの建物と相まって、これもまたきれいです。
見てる人・通り過ぎる人にとってはイチョウ並木・イチョウの街路樹は素敵な景観なのですが、そこに住む人にとっては私と一緒でなかなかやっかいな植物だと感じているのではないだろうか。
善通寺のイチョウの樹の落葉はだれが掃除しているのかお参り先で聞くと、地元の人が自分の住んでいる家の前に落ちた分を拾っているとのことです。
もちろんイチョウの木の剪定は役所がしているのでしょうが、家の目の前に落ちてくるイチョウの葉を掃除するのは、なかなか大変なことでしょう。
2019年の今年は、最も遅い夏日を観測するほど暖かい秋となっているので、イチョウの紅葉は遅く、落葉もまだ本格的ではありません。
お寺の掃除は落ち葉拾いだけではないので、速く落ちてきてほしいと思うのですが、自然任せなことなのでなかなか思った通りにはなりません。今年は特にそうなりそうな気がしています。
「掃除が大変なら、散った状態のままイチョウの絨毯にしておけば」と考える人もいるでしょうが、濡れたイチョウの葉を踏むと滑りやすく怪我をしてしまうので、安全のためにもさっさと掃除するべきです。
さいごに余談ですが、イチョウの葉は焼き芋に適していると言われています。普通の落葉樹を燃やすと、あっという間に火がついて、短時間高温のためサツマイモの中まで焼くことができないのですが、火のつきが悪いイチョウの葉はくすぶるようにじっくりとイモを焼くことができます。
イチョウの葉だけではさすがに火力が足りないので、他の葉っぱも混ぜながら焼くことになるので慣れが必要ですが、落ち葉で焼き芋を作るときには、イチョウの葉も一緒に焼いてみてはどうでしょうか。
なお、焚火や野焼きが禁止されている場合は、葉っぱを焼いたらダメですよ。
2019年11月19日の円龍寺本堂前のイチョウ
イチョウに関連する記事
* イチョウがお寺によく植えられている理由* 古いイチョウには乳根というコブが出てくる* 法要前の掃除が大変なこと(日記)* 春にはイチョウの花粉で本堂の縁が汚れる
またイチョウの木には、銀杏(ぎんなん)と呼ばれる臭いにおいのする実を落とします。銀杏は栄養価の高い食べ物です。拾った銀杏の食べ方を紹介しています。
https://kaxtukei.com/ginnann-syori-blog
半月くらい季節がずれている?
Tue, 19 Nov 2019 - 8min - 376 - 18.ハロウィンコスプレとお坊さんの衣 / 威儀や修多羅がお坊さんの服装に必須なんだよ
第18回目のラジオ配信。「ハロウィンのコスプレ衣装。本物のお坊さんの衣との違い」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
2回前の第16回目のラジオ配信の時に、お坊さんの冬服への衣替えの話をしましたよね。
私、うっかりしていて、10月31日がハロウィンというのをすっかり忘れてました。
「渋谷のハロウィン」とか「路上飲酒規制条例」とかのニュースを見ていたはずなのに忘れてて、一週間くらいたってから、急にふと「そういえば先週にハロウィンがあったなあ」と思い出しました。
東京と違って香川のような田舎だとハロウィンといっても、格別何か普段と違う、特別なイベントがあるわけではありません。
まあ、もちろん全くないわけではなく、香川県丸亀市にあるテーマパークのレオマワールドではハロウィンパーティーやパレード・仮装がありました。レオマからうちあがった花火も、私のお寺から見ることができました。
こんな風にハロウィンのイベントが全くないわけではないのですが、お寺の周りではハロウィンだからという行事はなかったですね。
せいぜいお参り先の家で、かぼちゃの置物が飾られていたくらいでしょうか。
東京のような都会。渋谷や池袋とかだと、どこからともなく人が集まって来て通りを埋め尽くして、いろんなキャラクターのコスプレをして、仮装大会みたいなことをしているんでしょう。
私ちょっと気になって、お坊さんのコスプレとかする人いるのかなあと思ったんですね。でもニュースを見ても、お坊さんのコスプレをしている人は見えなかったです。
そこでグーグル検索で、「お坊さん・コスプレ」や「ハロウィン・仮装・お坊さん」で調べてみると、『楽天市場』や『アマゾン』や『ヤフーショッピング』がヒットして、お坊さんのコスプレ衣装が4000円から8000円くらいの値段で売られてました。
値段だけ見ると、安かったです。
でもそれはあくまでもコスプレ衣装。お坊さんになりきるための仮装ということで、伝統ある法衣店が製作しているお坊さんの衣・袈裟とは、雲泥の差がありました。
お坊さんのコスプレ衣装の商品説明には「袈裟はエンジ色に金の文様が施してあり、本格的な法衣のようなデザインになっています。」と書かれていますが、お坊さんの着ている衣・袈裟は、金の文様があるかないかの問題ではないんですね。
お坊さんの着る衣・袈裟に大切なのは、威儀(いぎ)と修多羅(しゅたら)があるかどうかが大事なのです。
コスプレ衣装には威儀と修多羅がないから、本物のお坊さんとは比べて、なんか違うなあと、なんとなく違和感を覚えてしまうのでしょう。
まあひょっとすると、コスプレする衣装は、わざと本物とちょっと違うように安っぽく作るものかもしれませんので、なんとも言えませんが。
で皆さんは、威儀や修多羅と言われても、衣のどこをさしていてどんなデザインをしているのか、わからないでしょう。
内側に隠すのではなく、お参りの人に見えるように、外側に装飾されているのですが、説明されないと意外と気がつかないようです。
威儀や修多羅は、ラジオの言葉だけではイメージしにくいと思いますので、この音声をのせているブログ記事の方に、威儀や修多羅の写真を掲載しておきます。
さて、「威儀を正す」という言葉をご存知でしょうか。身なりを整えて、作法にかなったふるまいをするという意味です。
威儀そのものは仏教の言葉でありますが、お坊さんの衣で言えば、袈裟の両端を結びつける場所をさします。
威儀を正すという言葉は、お坊さんが着ている袈裟の端をきちんと正しく結んでいるのか、威儀の紐が緩んで気持ちもだらけていないかということです。一般の言葉で言えば、「襟を正す」・「ネクタイを締めなおす」ようなものです。
お坊さんのコスプレ衣装には、この威儀がないので、だらしのない雰囲気になるのだと思います。
そしてもうひとつ肝心なのが、修多羅です。
修多羅も仏教の言葉で、仏さまの教えを記したお経の意味があります。
修多羅は、インドの「スートラ」という言葉の発音を漢字に写しとったものです。スートラそのものは織物の縦糸を意味します。そしてお経の「経」という漢字も縦糸・縦の繋がりを表す言葉です。
お坊さんが着ている衣の袈裟には、この修多羅というのが相手に見えるようにデザインされています。
つまり仏さまの大切な教え、またいのちの大切な縦のつながりを象徴するものとして、お坊さんは着ているのです。
お坊さんのコスプレ衣装には、この修多羅がないので、単なるお坊さんの仮装みたいに見えてしまうのだと思います。
ちなみにこれらの威儀や修多羅は、七条袈裟と言われる最上の衣にのみ装飾されているように思われる人もいるかもしれませんが、お坊さんの普段参りする衣にもきちんとデザインされています。
五条袈裟は七条袈裟を簡略化したもの、輪袈裟や墨袈裟は五条袈裟を簡略化したものですので、お坊さんの普段参りする服装にも、人に見えるように、威儀や修多羅があります。
だからコスプレ衣装と比べても、本物のお坊さんの服装の方が厳かな雰囲気があるなあと感じるのではないでしょうか。
ラジオの補足
五条袈裟の威儀と修多羅
衣・袈裟に関連する記事
第18回目のラジオは、ハロウィンコスプレから、お坊さんの服の特徴。「威儀」と「修多羅」を紹介しました。
衣・袈裟に関するブログ記事を2つリンクしますので、よかったらご覧ください。
冬用衣体への衣替え.ラジオ#16一般的に5月1日と10月1日が衣替えの時期とされます。お坊さんもまた秋10月に冬用の衣に衣替えをします。しかし現実には11月になるまでなかなか衣を入れ替えようとしません。なぜすぐに冬服に変えないのか、その理由をラジオで紹介します。kaxtukei.com2019.10.29
https://kaxtukei.com/monk-fashion
お坊さんの服装に関する外部リンク
お坊さんの服装に関して、わかりやすく説明している外部リンクも紹介します。
* 被着法-勤式指導所-浄土真宗本願寺派*Tue, 12 Nov 2019 - 7min - 375 - 17.仏壇にお供えする果物の向き / 柿やみかんの置き方はヘタを上にする理由
第17回目のラジオ配信。「仏さまにお供えする時、果物の上下をどっちにする」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
柿はヘタを上にしてお供えする
果物の上下向き
* 仏さまにお供えする果物の上下は、木に実っていた自然な向きで置くこと* 柿やミカンは、ヘタ(葉っぱ)の方を上にする
音声の文字起こし
仏さまへのお飾りについて、最初に、注意事項を言っておきます。
仏さまへのお供えの仕方、お飾りと言うのは、宗派によって異なります。さらにややこしいことに、同じ宗派であったとしても、地域ごとの慣習もまじりあっていて作法が異なることだってあります。
ですので今回お話する、仏さまにお供えする果物の置き方についても、絶対に正しいという答えではありません。しかし仏さまにお供えする時に、何を考えるのかと参考になると思いますので、ぜひ聞いてみてください。
で、今回のお飾りの仕方解説は、香川県に住む真宗興正派のお坊さん、浄土真宗僧侶がしています。さっさと本題に入りたいのですが、これは言っておいた方が、聞いている人にとって親切だと思いました。
さて浄土真宗では、10月から12月にかけて、報恩講と呼ぶお参りが各地がおこなわれています。
報恩講は大切なお勤めですので、この時期には、ご門徒さんのお仏壇はいつも以上に、丁寧に豪華にお飾りがされています。
で仏さまにするお飾りの基本ですが、山海里(さんかいり)と呼ぶ、山のもの・海のもの・里のものを用意するのが基本となっています。さらには四季の花・四季の果物をお供えしていきます。
この11月ですと四季の果物として、立派な柿がどっさりとお供えされるんですね。
ここで5秒ほど、考える時間・思い出す時間をあけます。
仏壇に果物をお供えする時、皆さんは柿をどのような向きでお飾りしますか。リンゴやミカンなども思い出してください。
さてどうですか。
私の経験上、9割以上の家で、果物の柿はヘタ(つまり葉っぱがついている方)を下にしているのではないでしょうか。
「そんなの当たり前のことじゃない。」と思う人もいるでしょうが、じゃあリンゴやミカンはどうでしょうか。他の果物はどうでしょうか。大抵の場合、ヘタ・葉っぱの方を上向きにしているのではないでしょうか。
どうして柿だけはヘタを下にしてお供えするの?
ちなみにインターネット上にあふれている情報では、ヘタを下にするのが正しいと書かれていることがほとんどです。
でもそれは間違いです。正しくは、仏壇では柿のヘタを上にしてお飾りします。
なぜインターネット上では、柿のヘタを下にするという答えが多いのでしょうか。それには次のような理由があるでしょう。
* 少しでも見栄えが良く見えるようにと、装飾重視のため。* ヘタをした方が、腐りにくく日持ちしやすく、保存重視のため。* ギフト会社や葬祭業者の法事用のカタログを見たら、ヘタを下にしていたから。
こんな理由が出てくるでしょう。
実際、果物屋の商品では、柿はヘタを下に向けて並べていることが多いと思います。
でもそれは仏さまにお飾りするためではなく、色づいた皮をお客さんによく見せたり、店頭に長く置くためにしているんですよ。
もう一度言いますが、仏壇では、仏さまにお供えする時には、柿のヘタを上にしてお飾りします。茶色や緑色のヘタが見えていて、パッとしないなあと思っても、これが正しい向きです。
ではどうしてヘタを上に向けるのでしょうか。
理由は単純です。
仏さまにお供えする果物は、枝になっている状態・自然に実っていた形のまま、お飾りするのが基本となっているからです。
もう一度言います。
仏壇にお飾りする果物は、自然になっていた果物の状態でお供えします。
これは柿に限らず、すべての果物に共通した考えです。
リンゴやミカンは枝からぶら下がった状態で実るでしょう。だからヘタを上にして仏さまにお供えします。それと同じように、柿もまた枝からぶら下がって実りますよね。だからヘタを上にするのです。
梨やザクロやイチジクやパイナップルやメロンや桃やオレンジなど、あらゆる果物でも共通のお飾りの考え方です。
もちろんブドウやバナナなど、立ててお供えできない果物もあります。その時は、横にしてお飾りして下さい。
お供えは美しく見えるように飾るという考えもあります。ただ、果物の上下の向きにおいては、自然な状態で、木になっていた状態をイメージできるようにお飾りするようになっています。
「ヘタを下にした方が保存が効く」と言いますが、仏前へのお飾りはほんのちょっとの間のことなので、それはおおめに見てくださいな。
さて、「実のなる木のように飾るのが正式」とお坊さんの私が言っても、インターネットにあふれている情報にはそんなことはほとんど書いていません。
ほとんどすべての葬儀社や仏壇屋のウェブサイトでは、ヘタを下にすると書きます。
いや、ヘタを上にするとは書けないというのが正しいだろうか。
なぜなら彼らが、パクると言ったら失礼かもしれないが、コピーする各仏教宗派が出すお飾りの本。作法の本には、果物の上下の向きなんて書かれていないからだ。
こういうお飾りは、作法として書き残すほどのことのではない。親から子へと、親がしてきた仏さまへのお給仕を子供が見て、受け継いでいたら自然とできていることなのです。
だからお寺の子供や、あついご門信徒・檀信徒の家では、正しいお飾りが自ずとできています。
今回の話は、ラジオの言葉だけではイメージしにくいと思いますので、この音声をのせているブログ記事の方に、今回説明した果物の飾り写真を掲載するとおもいます。ちなみにその写真をみた人は、こんなツッコミをするかもしれません。
「お供えする果物の数は奇数じゃないと駄目じゃないの?」「なんで偶数なの?」と。
しつこいぐらい言いますが、インターネットによる情報収集が盛んになった現代では、『偶数は割り切れることから、「故人との縁が切れる」とされます。そのため仏前のお供え物は奇数にすることがほとんどです。マナーですので注意しましょう』と、特定の名前は挙げませんが、多くの葬祭サービスや僧侶派遣サービスのウェブサイトで解説されています。そしてそれを鵜呑みにします。
しかし、お寺や僧侶が運営しているウェブサイトやブログで、奇数がダメな飾りであるなんて書かれることはありません。奇数でも、偶数でも、どっちでもいいからです。
例えばですが、大量の小餅をお供えするとします。あなたは、いちいち1000個あるのか、999個あるのか数えますか?
Tue, 05 Nov 2019 - 9min - 374 - 16.お坊さんの衣替え / 10月の秋の時期になると僧侶も冬服に衣服を替えます
第16回目のラジオ配信。「お坊さんの衣替え」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
お坊さんっていつも黒い衣を着ていますよね。お坊さんの制服みたいなもんです。
たまにこんなことを言われます。
「1年中、夏も冬も同じ服を着て、暑かったり寒かったりしないんですか?」
いやいや、実は衣にも夏服と冬服があるんですよ。
黒い衣だけでなく、下に着ている白い衣の白衣(はくえ)や襦袢(じばん)と呼ばれる和服の下着も変えます。
法事の時に身に付ける綺麗な衣や袈裟もありますよね。あれも夏仕様・冬仕様があるんですよ。
「え~。気がつかなかったなあ~」と思ったあなた。もしよかったら、この10月11月が変化に気がつくチャンスです。
宗派や地域によっては異なるかもしれませんが、一般的にこの10月は、お坊さんの衣替えの時期ですから。
私も昨日お葬式があったので、まだまだ暑かったですが、冬用の衣体(えたい)、衣に入れ替えました。案の定、汗をしっかりかきました。
これは私個人の思いですが、衣替えの時期は現代の気候にあってないように感じます。
私の所属する宗派の規定では、冬の衣への移行は10月1日になっています。でも10月1日はまだまだ暑いですよね。
明治や江戸時代なら秋10月は涼しかったかもしれませんが、気温が上昇している現代では、暑くて暑くてかないません。
きっと中学校や高校でも10月1日から冬服だと決められているんじゃないですかね。急には変えずにちょっとずつ移行していく感じで。お坊さんの世界も明文化はされてはいませんが、移行期間というのが存在しています。
私は10月になってすぐに冬の衣に変えているお坊さんを見たことがありません。もちろん本山や別院などの正式な場所へ出向く場合は、決められた正しい服装をしますよ。
でも一般寺院での法要や、ご門徒さんでの法事や葬儀では、過ごしやすい服装のままでいると思います。
このラジオ放送を録音している10月27日今日も、最高気温が23度、昨日は24度もありました。
でも11月になる前には、そろそろ変えないといけないなあと思って、今日から冬の衣に変えました。
お坊さんの世界も不思議なもんで、誰かが衣替えをすると、顔は合わしていなくても、あっちのお坊さんもこっちのお坊さんも衣替えするんですね。
きっと顔は合わしていなくても、なんとなく姿が見えていて、「ああ、もう衣を変えないといけないのかなあ」と思うんでしょうね。
それにお坊さんのお勤めも調和が大事なので、「私だけまだ服装が変わっていないの」と、1人だけ浮いてしまって目立ってしまうんですね。
そんなこんなで、発起して重たい腰を上げて、衣替えしました。
10分までまだ時間に余裕があるので、もう少し雑談を続けますね。
私がですね。冬の衣に変えるのが遅くなるのには暑い以外にも理由があります。衣替えがめんどくさいからではないですよ。
その理由は冬の衣が分厚くて、重たいことです。
私は衣の専門家でないので詳しいことは分からないのですが、夏物と冬物の衣は全くの別物なんですね。
特に一番の違いは、生地の厚みが違います。法要用の冬の衣はとにかく分厚いです。そして重い。
衣は綺麗に丁重に折りたたんで片付けますが、厚みがすごいんです。それに持ち運ぼうとすると、2倍どころか3倍5倍も重く感じます。
法要の時に着る衣を持ち運ぶためのカバンというのがあります。夏の薄い生地の衣の時は、それほどかさばらないので、小さめなカバンで大丈夫なのですが、冬になるとかさばってかさばって、かなり大きなカバンになります。
「カバンの大きさくらい我慢すればいいじゃないか」と思うじゃないですか。
でも重たくて大きいので、片手が完全に塞がってしまうんですよ。これでもう片方の手がふさがっていたら、車の扉や家の扉などが開けられなくなるんですよ。不便ですよね。
それだけじゃありません。
お参りに行った先で、おつとめ用の衣に着替えようとしますよね。
カバンが大きいので広げるためのスペースが夏と比べて必要ですし、厚みもあるので、折りたたんでしまうときも手間が増えます。
夏の時と比べてお坊さんがもったりもったりしているなあと感じるかもしれませんね。
だから私は秋10月になっても、あんまりすぐに冬の衣に変えたくないのです。
ラジオの補足
冬服に衣替え
夏服と冬服の違い
10月と5月はお坊さんも衣替えします。でも音声だけだと、どんな風に変化しているのか、分からないことでしょう。以前のブログ記事では、お坊さんの私の衣が、どのように夏用から冬用に替わっているのか紹介しています。
https://kaxtukei.com/monk-seasonal-change-clothes
ちなみに私は、夏よりも冬の方が好きです。その理由は、こちらの記事「夏よりも冬の方がお坊さんの私は好き」で紹介しました。
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Tue, 29 Oct 2019 - 6min - 373 - 15.天皇の即位と退位 / 時代を語り継ぐために京都御所や御室御所にも行くべき
第15回目のラジオ配信。「令和の天皇陛下の即位と、退位」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
このラジオ配信日の今日がまさに、皇居で「即位礼正殿の儀」がおこなわれる日ですね。
どのような感じで即位礼正殿の儀がおこなわれるのか、楽しみです。
とういうのも、私は昭和天皇の崩御と平成の天皇の即位を経験していないので、その時の世の中の雰囲気や報道のされ方を知らないんですね。
で皆さんは、平成の天皇陛下がどのような形で、即位されたのか覚えていますか。
私は生まれる前のことだったので、知らないんですね。だから、平成の天皇の生前退位が決まった2017年には、お参りに行った先の人に、「平成の天皇陛下はどこで即位されたんですか?」「やっぱり京都御所の紫宸殿(ししんでん)でしたか?」とたずねると、「覚えていない」という答えが多かったんですね。
中には「東京の皇居でしたよ」と答えてくれる人もいるんですが、私が「じゃあ、わざわざ天皇の玉座の高御座(たかみくら)を、京都御所から移されたんですか?」と尋ねると、「覚えていない」と言われるですね。
それが2017年の私の経験です。
2019年になると、「5月1日に新しい天皇陛下が東京の皇居で即位するんだ。」と知らない人はいない様子でしたが、はたしてこの出来事も30年も経つとどうなるでしょうかね。
私も20年30年後は生きているのか知らないですが、もしも人に尋ねられたら、世の中はこんな雰囲気だったんだよ。
10月22日の「即位礼正殿の儀」の前には、東日本に大きな台風が来て、甚大な被害があって、天皇皇后両陛下の即位パレード「祝賀御列の儀」は11月10日に延期になったんだよ。と言えそうです。
ちなみにですが、お参りに行きますと、5月1日と10月22日の違いについて聞かれることもありますが、似たようなものと思ってもいいと思います。
説明すると、平成の次の天皇陛下が即位するにあたって、国事行為の「即位の礼」を2018年に時の政府が決定をしたんですね。
でその「即位の礼」の内容は、5つの儀式からなってて、
* 新しい天皇に継承するための、天皇を象徴する剣璽や印などの引継ぎの儀* 5月1日に続けてあった、国の大臣などが新しい天皇に拝謁する儀* そしてこの度の10月22日にあるのが、天皇自身が国内外に天皇になったことを宣言する儀。玉座の高御座を用意しますね* 天皇陛下をお祝いするお食事会。結婚式の後の披露宴みたいなものですね* さいごに、祝賀のパレード
この5つの儀式をあわせて、令和の「即位の礼」となっているんですね。令和のね。
日にちとか、場所とか、内容は、時代によって違うみたいです。生まれる前のことだから私もよく知らないですが。
それこそ私も令和の天皇陛下の「即位礼正殿の儀」は京都御所で行われると、2017年の頃は想像していたんですよ。
理由は明治・大正・昭和の天皇陛下は、京都に戻って、京都御所でされてたからです。実際、玉座の高御座は京都御所の紫宸殿(ししんでん)に常に安置されてますからね。
でも2018年1月2月頃のニュースを聞くと、どうも今回は、東京のお住まいの皇居で即位されるみたいだなあという感じになってたんですね。
でちょっとお坊さんの私の話をします。
どうも世の中全体に、「平成の次の天皇は、東京で即位されるぞ」という空気感が2018年の春ごろから感じられたんですね。
でもお参りに行って、「昭和から平成の時はどうだったんですか」と聞いても、「お祝いムードでもあったけども、いつの間にか過ぎていた」みたいな答えだったんです。
その話を聞いて「そうか実際に行って見て経験しないと記憶に残りにくいか」と私は思ったんですね。
でその時の私の知識として、天皇の即位には高御座が必要ということがあったので、それなら「ご門徒の人と一緒に、京都御所に行って、実物の高御座を見よう」と考えました。
さいわい、私の所の宗派の本山は、京都にあります。また京都には世界遺産が数多くあります。
そこで本山の参拝と、京都の世界遺産を巡る旅を企画して募集し、2018年の5月下旬に25名ほどで行きました。
即位やオリンピックの前ということで、おそらく注目されていないであろう、2018年の今なら一番のチャンスだと考えたからです。
京都御所の思い出話をすると、まず第一印象は広かったです。門をくぐったと思ったら、また塀がありました。
バスを降りて中に入ろうとすると、皇宮警察の人がいて、1人ひとりのカバンの中身をかんたんにチェックするんですね。私が京都御所に行ったのは、朝一番の9時だったので、あまり人がいませんでした。
で行って初めて知ったのが、高御座が安置されている紫宸殿(ししんでん)が思いのほか広くて遠かったことです。
肉眼ではなんとか高御座の下半分がくらいがみえるのですが、全体像をカメラに写すのはちょっと難しかったです。
代わりに紫宸殿の前に配置されている、左近の桜と右近の橘(たちばな)はよく見えました。
ちなみに高御座は、直後の6月から移動のために解体されたので、ぎりぎり見ることができたのはラッキーでした。
続けて私たちは世界遺産の仁和寺に行きました。888年の仁和の元号の時に建てられた真言宗御室派の本山ですね。
なんで仁和寺に行くんだと思われる人もいるでしょうが、平成の天皇の生前退位がおこなわれる今の時代だからこそ、行くべき場所だと思い、この仁和寺を選びました。
というのも仁和寺は御室御所(おむろごしょ)と言われている場所なんですね。
仁和寺は門跡寺院であり、明治時代までは歴代の仁和寺住職は、隠居された天皇や皇族らがつとめられた寺でした。
ですので、御室のお住まいということで、仁和寺には御室御所と言う名前がつけられているのです。
もちろん名前だけでなく、京都の御所と同じように、仁和寺には右近の橘と左近の桜も配置されています。京都御所を離れた天皇が、もう一つのお住まいとして、余生を過ごされた場所です。
平成から令和の時代は、平成の天皇が生前退位した時代でもあります。
時代が変わり、変化してきたことも多くありますが、昔のこともたずねつつ、新しい変化も取り入れていくべきでしょう。
まだ京都には、古い日本の面影が残っていることでしょう。令和の天皇陛下の即位をお祝いして、皇居だけでなく、京都御所や御室の御所などにも行ってみてはどうでしょうか。
ラジオの補足
京都御所の紫宸殿
なぜ10月22日が即位礼正殿の日なのか
天皇陛下が内外に即位を宣言されるのが、即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀です。Tue, 22 Oct 2019 - 9min - 372 - 14.災害と香川県 / 日本は台風や地震などの自然災害に見舞われるが、災害の少ない香川は移住におすすめの県
第14回目のラジオ配信。「自然災害と香川への移住」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
2019年10月13日に、かつてない規模の台風が東日本を襲ったとニュースで聞きました。土砂崩れ・堤防の決壊などにより、数多くの死者・行方不明がでているとのことです。被災された方々に、この度のご災難、お見舞い申し上げます。
今回は「自然災害と香川」をテーマに短い話をしようと思います。
お寺は昔から、台風・地震・火事の3つがおそろしい災害でした。火事は昔と比べてだいぶ減っていると思いますが、特に台風の被害は増えているように感じます。
台風は雨と風が怖いですよね。
風で屋根が飛んだり、扉が飛んだり、そして雨が降って建物を濡らします。
雨が激しく降り続けると、土砂崩れや洪水が起きるかもしれません。
かつてのお寺の屋根ががっちりとして重かったのは、台風に備えていたからとされます。一方で、最近では骨組みや土台を工夫して、屋根を軽くするお寺も増えつつあるそうです。
さて、災害の少ない安全なところに住みたいとだれもが願うことでしょう。
じゃあ、香川県はどうでしょうか。
意外に思われるかもしれませんが、香川は自然災害が少ない場所と言われています。だれが言っているかと言えば、香川に住む人たちが言っているんですよ。私の住む地域では「お大師さんのおかげ」と誰もが口をそろえて言います。
香川は夏の水不足を除けば、災害のほぼない県です。水不足と言っても、ほんのちょっと取水制限をするだけですし、水道からの水圧がちょっと減るだけで、生活にはなんら支障がありません。
香川を初めとした瀬戸内海の、香川・広島・岡山・愛媛・徳島・高知には活火山がひとつのも特徴でしょう。
香川は大きな地震も少ない場所です。平成の時代では、県内で震度5を観測したのはたったの2回だけです。全国では300回以上もあるのにですよ。死者6400人以上の甚大な被害のあった平成7年の阪神淡路大震災であったとしても、香川県の最大震度は4でしたし、死者は0人でした。
波も瀬戸内海のため、穏やからしいです。他の海と比べたことがないので、ホントに波が穏やかかどうかは分からないですけども。
で今回関東を襲った台風ですけども、香川県は台風の被害が本当に少ないんですよ。それは実際に住んでみたら分かります。
台風が直撃することは稀ですし、周りの四国の愛媛・徳島・高知が大雨でも、香川では晴れていることだってよくあります。岡山の北にある中国山地や、香川の南にある四国山地と讃岐山脈が鉄壁の守りをしてくれています。
統計局が毎年出している都道府県ごとの「自然災害被害額」でも、香川県はだいたい毎年トップ10に入るぐらい、被害の少ない場所だというデータがあります。
それこそ香川に移住を考えてみてはどうでしょうか。
余計なお世話かもしれませんが、香川は意外と住みよい場所なんですよ。そのひとつは災害が少ないことですね。
他にもいろいろ理由はありますよ。
例えば香川県は日本で一番小さな県ですね。でも道路の舗装率は99.9%で全国3位ですし、道路密度も全国4位です。車の運転さえできれば、香川はどこにでも移動できます。
また香川は四国の玄関口なので、3時間あれば四国の隅まで車で行けますし、3時間あれば橋を渡って車で広島や大坂にも行けます。
県内も高速道路が東西に貫かれているので、1時間あれば県内の移動が可能です。
空の移動の高松空港も高松市内から30分で空港に行けて、そこから東京まで1時間30分くらい、沖縄や台湾・中国・韓国も2時間ほどで行けるので、国内国際ともにアクセスの良い場所です。
海の移動も、高松港や坂出港や丸亀港など多くの港があり、本州や瀬戸内海の島々の行き来ができます。車も乗せられるフェリーもありますし、速く移動ができる高速船、さらには自由に港を行き来していくれる海上タクシーだってあります。
香川は賑やかなところとも言えます。香川県の人口密度は、1平方キロメートル当たり500人以上と、全国11位です。山間部でなければ、人のかなり多い県です。
もちろん、ただ人の密度が多いだけでなく、人口10万人当たりの大型小売店数は全国5位ですし、人口10万人当たりの救急病院数も全国6位と、暮らしやすい場所と言えるでしょう。
また香川県は少しずつ観光場所として注目されているようです。晴れの日が多く、温暖な気候であること。さらには平坦なところが多く、丸亀や高松では自転車での移動も楽々だということもあるでしょう。
外国からの訪日観光客数、インバウンドも増え続けて、この5年間で10倍以上と全国一の伸び率だそうです。もちろん今までが少なかったのもありますし、日本に来る訪日観光客の割合で言えば、わずか1%と少ないので、生活する香川県民と外国人との交流が活発であるとは言えませんが、それでも香川県が注目されつつあるのは事実でしょう。
ちなみに香川県への移住を考えるなら、宇多津町が今、ホットな場所かもしれません。
香川の真ん中の方に位置する宇多津町では、交通の便が良く、人口指標が四国で最も高い場所ですし、人口が増加している場所でもあります。また来年2020年3月には、四国最大の大型水族館がオープンし活気もあります。
絶対に安全な場所はないとは言いますが、香川県は災害に対して、安全なところだとされます。
どうでしょうか。都会での生活にあこがれる人も多いでしょうが、地方にも目を向けてはどうでしょうか。
ちなみに香川県の有効求人倍率は全国10位以内と、働き手を多く求めている場所でもありますよ。
香川県の魅力・移住を紹介したページ
子育て県かがわ情報発信サイト
* 香川ってこんなとこ!* 香川への移住者インタビュー
香川移住ポータルサイト
* 香川をおすすめする6つの理由* 香川県へのお試し移住
Tue, 15 Oct 2019 - 9min - 371 - 13.喪中での獅子舞の参加 / 香川は獅子舞が盛んな場所。邪気を払う意味があるが喪中の家は祭りを断らないといけなのか
第13回目のラジオ配信。「香川県の獅子舞と、喪中での参加について」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
私の住んでいるところは香川県と言われる場所です。日本で一番小さな県ですね。
最近では讃岐うどんのおかげか、古い名前の「さぬき」の知名度も上がっているようです。
で意外と皆さんに知られてないかもしれないんですけども、香川では獅子舞というのが結構人気なんです。この10月になりますと、香川県のあちらこちらから各地域ごとに、獅子舞の組が出てきます。
私は金倉という地域に住んでいますが、6つの部落からそれぞれ獅子舞と太鼓ぶちが、地域の神様である八十主神社(やそすか)に獅子舞を奉納します。太鼓ぶちとは獅子舞と一緒に太鼓をたたく子供たちのことです。
一体どなたが言い始めたかは分からないんですけども、昨年の香川県の公式のホームページでも、香川県内にある獅子舞のグループは800組ぐらいあるそうです。かつては最大で1200の獅子組があったらしいと書いていました。
香川県では獅子舞が人気なのは本当のことなんです。県が指定した無形民俗文化財でも5つが獅子舞になっているほどです。
例えば香川の結婚式の時には、地元の獅子舞グループが獅子舞を披露します。
公的な大きなイベントでも披露されますね。例えば今年の瀬戸内国際芸術祭2019の春会期の開会式や、2017年の全国育樹祭でも皇太子殿下の前で披露されました。また私のすぐそばの多度津では、毎年、多度津の桜祭りがありますが、その桜祭りでも獅子舞が披露されます。丸亀のお城まつりでも獅子舞があります。
この10月になると、いろんな獅子舞が香川県内各地で見ることができます。
で私お坊さんですので、ご門徒さんからこんなことをよく質問されるんですね。「身内が亡くなってまだ49日の途中だったり、百箇日法要をまだ迎えてないんやけども、神社の獅子舞に参加したり、獅子舞を家の中に来てもらうのは断らないとダメなんかな?」みたいなことを言われるんです。
あらかじめ言っておきますと、私は浄土真宗のお坊さんです。ですので、浄土真宗的な回答に今回はなります。
結論を短く言いますと、神社の獅子舞の行事にぜひ参加してくださいませ。家に来た獅子は、ぜひ家の中で舞ってもらってください。獅子舞をしていただいて一年の邪気を払ったり家内安全であったり無病息災であったり五穀豊穣などを願っていただけたら幸いです。
もう少し詳しく言いますと、そもそも獅子舞の行事と仏教は現代においては関係がほとんどありません。獅子舞は神事の行事ですので、そういう喪中や忌中のことは、神社の神職の人・神主やあるいは氏子さんに聞いて頂くのがベストだと思います。
そもそも仏教では喪中や忌中という考えはないと言われてます。少なくとも浄土真宗ではありません。仏教では1週間1週間ごとの中陰のお勤め、四十九日・満中陰のお勤めや百箇日というのはありますが、故人の冥福を祈り、慎んだ行動をするのは神道の考え方です。
神道の方では、忌中として死んだ日から最大50日は、神事や結婚式や公の行事の出席を控える考えがあります。その後の喪中は普段通りの生活に戻ります。
でも仏教の方では、そんな考え方はないので、中陰の49日の間でも、お祝い事を慎む必要はありません。
仏教のイメージって、死に関係する何か不吉な行事のようなイメージを持っているのかもしれないですが、例えば浄土真宗の法事を思い出していただければ、仏様にお仏飯というご飯をお供えしますよね。でも家によってはおめでたいことだということで、お赤飯を仏様にお供えしたり、またあるいはちらし寿司を用意してお参りの人たちにお配りしますよね。浄土真宗では家の中に亡くなった人がいたからといって、祝い事をしていはいけないという考えはありません。
ですので家の中に亡くなった人がいたからといって、獅子舞を拒否する必要もなく、地域の祭りや神社の行事にすすんで参加していただければ良いと思います。
ただし地域によっては、参加を拒否されるかもしれないので、それは神社の神職や氏子に尋ねていただければと思います。
ちなみに香川ではお寺にも獅子組と太鼓ぶちが来て、獅子舞をされますよ。私のお寺でもこの前の土曜日に、本堂の中で獅子舞を披露してくださいました。
獅子舞への参加の話題つながりで、もう一つ短い話をします。
仏教には、身内に死人が出ても、よろこびごと・慶事や外出を控えるような考えはありません。でも地域の慣習として、なんとなしに皆さん、49日や100か日の間は避けようと考えています。
こんな質問がありました。
ある老夫婦が孫の結婚式に行く予定でした。でも結婚式の直前に亡くなりました。楽しみにしていた結婚式を断らないといけないのですかと、その家族から質問されました。
いえいえ、たとえ中陰の間であったとしても、ぜひ結婚式に参加してください。ただし、亡くなった人のお写真も持って行って、亡き人と一緒に家族の結婚式をお祝いしてくださいって答えました。
ちなみに私のお寺、円龍寺は丸亀の金倉町にあります。大晦日には除夜の鐘を年をまたぐまで撞き鳴らしています。
新年を迎えるとすぐ午前零時に、隣の多度津大木葛原の獅子組が「年越し獅子舞」を荒神(こうじん)さんに奉納し、太鼓と鉦の音とともに賑やかに新年の正月をお祝いしています。
私のかっけいブログの最後には、きっと大木の獅子組のホームページをリンクしていると思いますので、よろしければ香川の獅子舞がどんなものなのか、確認してみてはどうでしょうか。
ラジオの補足説明
円龍寺本堂での獅子舞
八十主神社
私の住む金倉町には八十主神社(やそすか)があります。金倉の6つの獅子舞はここに奉納されます。八十主という神社は非常に珍しいと思います。次のブログ記事で八十主神社を紹介しました。
https://kaxtukei.com/marugame-tadotu-yasozinzya-shrine
大木獅子組
ラジオ内でも紹介しましたが、私の住むお寺の横の多度津葛原(かずわら)にも獅子組が4つあります。
大木獅子組は夫婦の獅子舞を奉納しているようで、年越し直後には、寺のすぐ近くにある荒神さんで、年越しの獅子舞をしています。
大木獅子組はホームページだけでなく、ブログもしており、香川各地の獅子舞や神社の情報を発信しています。ぜひ確認してみてください。
香川県公式の獅子舞情報
香川県の広聴広報課は年に4回、県外向けの香川県情報誌「新・さぬき野」を発信しています。2018年秋号には『Tue, 08 Oct 2019 - 8min - 370 - 12.瀬戸大橋と渡り初め / 現代では親子3世代が同居することは難しいのかもしれない
第12回目のラジオ配信。「瀬戸大橋と親子三世代の渡り初め」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
香川県に住む私にとって瀬戸大橋はなくてはならない橋です。瀬戸大橋を知らない人に向けてどんな橋なのか少し説明しますね。
瀬戸大橋は四国と本州を結ぶ大きな橋です。ひとつの橋ではなくて南北に連続する10個の橋をまとめて瀬戸大橋と言います。今から31年前の1988年に完成しました。
橋ができるまでは四国の人が本州に行くためにはフェリーに乗って瀬戸内海を渡るしかなかったんです。橋が必要だという理想・構想は100年以上前の香川の政治家の大久保諶之丞(おおくぼじんのじょう)という人がすでに提言していたように、四国の人にとって瀬戸大橋は本当に待ち望んだものでした。車だけでなく、鉄道も走ることができる橋なので、今では安全に便利に本州と四国を行き来できるようになりました。
ニュースによると、今、瀬戸大橋はけっこうな人気だそうです。平成10年から毎年数日間、瀬戸大橋を歩くスカイツアーというのが開かれています。普段入ることができないJR瀬戸大橋線の線路の横や管理用通路、海面から175mに位置する塔頂から岡山と香川を眺めるといった内容です。昨年の2018年の応募倍率は30倍弱だったそうです。
人気が高まっているようで、今年2019年の秋のツアーは9月28日から12月1日までにある計32日間に増やしました。でも応募開始からわずか2日で募集定員に達したそうです。
ちょっと説明が長くなりましたかね。こんな説明で瀬戸大橋がどんな橋かわかりましたか?
で今日の話は瀬戸大橋なので、お坊さんらしい話をひとつ絡めようと思います。
「三世代渡り初め」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?渡り初めと書いて、渡りぞめと読みます。書き初めと一緒ですね。渡り初めは橋の完成を記念して、同居する3世代の家族が開通記念に橋の上を歩くことです。日本では江戸時代にはすでに三世代渡り初めがあったようです。
なぜ、三世代の家族が渡りはじめないといけないんでしょうかね。それは「三世代の家族がともに1つの家で支えあうのは素晴らしいことだ。家族のつながりのように、橋もまた末永く続いてほしい」という願いが込められているからです。
瀬戸大橋が開通したのは1988年4月です。前年には香川に住む3世代家族への「三世代渡り初め」の募集がはじまっていました。
私のお寺のご門徒さんにも三世代渡り初めに選ばれた人がいました。1988年は昭和の終わりです。昭和の終わりはすでに核家族が社会の問題として言われ始めたころです。
江戸時代や明治の親子3世代渡り初めは、長生きが難しい時代だったので稀なことで、一家に三代の夫婦が顕在できていることは珍しくおめでたい事だったのですが、昭和の終わりの渡り初めでは事情が変わっており、生きていても同居していない家族が多くなっていました。
そのご門徒さんは瀬戸大橋の「三世代渡り初め」に選ばれました。でも残念なことに完成前に祖父が亡くなってしまいました。本当ならば渡り初めから外されることでしょう。しかし家族がバラバラに住むようになっていた社会の状況もあり、特別に亡き人のお写真をもって親子三世代の渡り初めをすることができました。
2019年令和元年の香川県は、人口95万人・世帯数40万と、一世帯の人数が2人をギリギリ超えてる状況です。どうでしょうか、70歳代でなくなると「まだまだお若いのに」と言われ、80歳以上の年齢も多くいるこの時代ですが、3世代が同居している家が近くにありますか。
お坊さんの私は親子三世代が同居する家が本当に稀であると感じます。
お坊さんは「子は親の背中を見て育つ」ことを言います。仏様に参ること、敬うことというのは、言葉で説明していくものではありません。分かるから参る、分からないから参らない、信じるから手を合わす、信じないから手を合わさないということでもありません。
現代では仏壇を構える家がかなり減りました。それは家庭の中で敬う空間を失ったということです。親子三世代が1つの家で住んでいた時代は、家庭内でのすれ違い・喧嘩もあったことでしょう。でも子は親の姿を見ていました。親もその親の姿を見ていました。どんなに厳しいことをいう親・理不尽そうなことをいう親であっても、神仏に対して頭を下げていた敬う姿を見ていきました。
核家族が進み孤独になった現代ではどうでしょうか。家の中で敬うこと、頭を下げることがあるでしょうか。家庭のすれ違いをまとめてくれる存在はあるでしょうか。
三世代のつながりというのは、ただ珍しいからおめでたいことではありません。ともに1つの所で支えあっているから、言葉によらずとも共に思いやり、影響力を受けることができるということです。
ラジオの補足
大久保諶之丞とは
笑わしゃんすな 百年先は 財田の川から 船出して 月の世界へ 行き来する
この歌は今から100年以上前の明治18年(1885年)に大久保諶之丞が詠みました。こののちに、瀬戸大橋や香川用水の構想を訴えた人物です。
今でこそ、香川県の人にとって徳島の吉野川から水を引く香川用水は当たり前のような存在です。しかし、その当時は讃岐山脈を貫いて水を引くなんて不可能だと言われました。それを実現しようと訴えたのが、この大久保諶之丞です。また四国をつなぐ鉄道を提唱した人物でもあります。
香川県の三豊に生まれた大久保諶之丞は香川の偉人とされます。しかしなかなかその功績は広まっていないように思われます。次のブログが調べてまとめているので、リンクを貼ります。
「香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞について調べました。」『ひでさんの思いつき日記』
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Tue, 01 Oct 2019 - 7min - 369 - 11.地獄と極楽 / 実はどっちも同じ世界かもしれない
第11回目のラジオ配信。「地獄と極楽」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
今回は、「地獄ってどんな世界なの?極楽とどう違うの?実は地獄と極楽って同じような世界なの」っていうお話をします。
浄土真宗のお坊さんの私はこの前、お参りに行きましたら、ご門徒さんから「極楽という世界はどういうところなんですか?」っていう質問になりました。
そのような質問をされたので、私は仏説阿弥陀経の話をしようとしたんですね。阿弥陀経には、西方極楽浄土の仏さまである阿弥陀仏の極楽がどんな世界であるのかが説かれているんですね。
すると質問したその人は、「いや、もうその阿弥陀経のの話は何度も聞いたので、それ以外の話も聞きたい」って言ったんです。
そうですか、じゃあ浄土三部経にある阿弥陀仏の極楽の話ではないんですけども、こんな例え話がありますよということで、仏教の有名なお話をさせていただきました。その話を今からします。頭の中でしっかり光景をイメージしてくださいね。
とあるところに物好きな人がいました。その人は生きているうちに、地獄と極楽がどんな世界なのか見てみたいなあと思いました。
その人は、まず一番最初に、恐ろしい世界だと思っている地獄の様子を見に行ったんです。
きっと地獄は金棒をもった鬼が殴ってきたり、針の山に投げ捨てれられたり、火の海で焼かれたりと苦しい世界だろうなあと思いながら覗きました。
でも地獄をみてみると、その人はビックリしたんですね。
地獄の世界の中には、大きなテーブルがあって、その中央においしそうなごちそうが山のように盛りつけられていたのです。
地獄って怖い世界と聞いていたけども、なんのなんのこんな素晴らしいごちそうが食べられるんだと、その人は思ったんですね。実際、その大きなテーブルの周りには地獄の人がたくさん群がっていました。
でもよくよく見てみると、テーブルを囲っている人たちの手には、柄がとってもとっても長~いスプーンになっていて、手に縛り付けられていたんですね。
柄の長~いスプーンで、テーブルの中央にあるご馳走をすくうことができても、自分の口に運ぼうとしてもこぼれてしまって、食べることができないのです。
その様子をみて物好きな人は、ご馳走が目の前にあってもどうしても食べることができない、手に取ることはできても食べることができない、これが地獄の苦しみかとわかって、地獄には落ちたくないなあと強く思いました。
続けてその人は、極楽の世界を見に行きました。
地獄と違って、天女が舞ったり、美しい音楽が響いている素晴らしいところだろうなあと期待して覗きました。
でも極楽の様子を見たその人は、ビックリしたんですね。だって、さっき見た地獄と同じ光景が極楽にもあったからです。
大きな大きなテーブルの真ん中に、たくさんの豪華なごちそうがあったんですね。地獄と同じように、テーブルの周りにはやっぱりたくさんの人が座ってたんです。その極楽にいる人たちもみんな、自分の手に長い長いスプーンが縛りつけられてたんです。
それを見た物好きな人は酷くがっかりしました。地獄も極楽もおんなじ世界じゃないんかと。
がっかりして帰ろうとしたとき、極楽の人たちは、みんな満足そうな顔をしていたことに気がついたんです。
なんでだろうと思ってよくよくその様子を見てみると、極楽の人は自分がすくった食べ物を、自分のスプーンが届く範囲の人の口に分け与えてたんです。決して自分の口に入れようとはせずに。すると自分の口にも自ずと他の人がすくった食べ物が運ばれてきていたのです。
それを見て物好きな人はハッと気がつかされました。
地獄は恐ろしい世界だろう。極楽は夢のような幸せな世界だろうと想像していたけれども、実はどっちも一緒だったんだ。
違っていたのは、そこにいる人たちの心がけのことなんだと気がついたんです。
この地獄と極楽のたとえ話から言えるのは、地獄の世界の人は、自分のために・自分の利益のことしか考えられないんだ。でも極楽は、お互いのことを思いあうことができる世界なんだと。
さていかがでしたか。仏教の有名なたとえ話をしてみました。
浄土真宗ではありのままを受け入れるという考え方があります。目の前の状況は変わらなくても、自分たちの心の有り様・物事の見方が変われば、実は一見苦しみのような世界でも、相手のことを思いやること、お互いに敬いあうこと、お互いに助け合える、お互いに幸せになれるそういう風な世界があるんだと転じることができます。
それがこの地獄と極楽の世界から分かってくるんです。
ラジオの補足
地獄と極楽の食事風景
今回、私は地獄と極楽の食事風景を紹介しました。
でもおそらく、この話は仏教経典からの話ではありません。お坊さんによっては長~いスプーンの代わりに匙やお箸の話をすることがあります。
また同じような話が、キリスト教やヒンズー教やユダヤ教など、外国にもあるようです。たとえば次のyoutube動画を見てください。今日のラジオの参考になると思います。
長いスプーンのはなし。自分だけが食べられればいいと考えると、いつまでも食べられない
阿弥陀経の極楽の様子
浄土真宗では極楽浄土の仏さま、阿弥陀仏のお浄土を説いたお経を拝読します。
私はブログ記事にて、阿弥陀経を現代語訳しましたので、極楽がどんな世界であるのか読んでみてはどうでしょうか。
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Tue, 24 Sep 2019 - 6min - 368 - 10.小学校の道徳の教科書 / お坊さんが思ったこと
第10回目のラジオ配信。「道徳の教科書」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
私は香川県の丸亀市に住んでます。丸亀市には丸亀駅のすぐ近くに丸亀市立図書館という図書館があるんですね。
この図書館に8月ついこの前、行きましたら、来年の令和2年度の1年生から6年生までの教科書がもうずらーっと展示されてて中身をどなたでも自由に確認することができたんです。
図書館入って目の前、真っすぐの目立つところに並べられてあるので、図書館に行ったらすぐに気がつくと思います。
「小学生がどんな勉強をするのかなぁ?」って、ちょっと気になって算数から理科から国語・歴史・家庭・図画工作・道徳などと色々、全部パラパラパラパラ見たんです。全部のページに目を通したんですけども、そしたら「まぁ最近の小学生って、最近の小学生って言ったらおかしいですかねぇ?」「私、自分の小学校時代を全然覚えてないんですけども、もう小学生の習う事ってすごいんですね。小学生が習うことをこれ全部できたら、全部マスターできたら、並の大人よりも優れた人ができるんじゃないかなあぐらい」、非常に充実した内容でした。
そりゃあもちろん。その教科書を作っている大人の人がもう子供にちょっとでも分かりやすく理解できるように簡単に簡単に、そして理解しやすいように絵をかき図を使って説明しているんで。
それはもちろん小学校の教科書って、おそらく一番の優れた本だと思うぐらいだったんですけども、「まぁ小学生って、書かれていることを全部マスターできたらとんでもないような立派な人になるんじゃないかなあぐらい素晴らしい本を読むんだな」と私、感心しました。
で私はお坊さんですから道徳の本が、ちょっと気になったんですね。道徳というのは昔は総合授業・総合的な学習という風な感じで科目ではなかったんです。
科目ではなかったので、それぞれのクラスの担任の先生が好きなように教えて、また道徳の本みたいなのがあったと思うんですけども(心のノートだったかな?)、たしか、何かテーマみたいなのを考えることをちょっと書いてて、そして空白のところに思ったことを書いて、そして先生が頑張って点数をつけるとか丸をつけるようなそんな感じだったと思うんですけども、今の・来年の新しい令和2年の道徳の教科書をちょっと見ると、「いやもうすごい。もういろんなことを細かく細かく教えてるなー」ってちょっと感心、感心というか参考になりました。
あのー記憶があいまいですけども、丸亀が採用した小学校道徳教科書は学研の教科書だったと思います。綺麗な1年生から6年生の本にかわいらしいイラストがあって、で書いてる文字もひらがなであったりルビを振ったり、難しい漢字と学年に応じて文章の難易度をかえてました。
それで1年生から6年生のを見ると、教えてることはどの学年でもだいたい一緒なように思いました。ただしやっぱり高学年になればなるほど、話の取り上げてる内容、昔と違ってテーマだけをポンと出すんじゃなくて、物語・読み聞かせの絵本みたいな感じで、それを感動ストーリーと言ったらおかしいかもしれないけですけども、まあ心にくるような読み物を読み聞かせて音読して、それで「あなたはどんなことを思ったんですか?感じましたか?」みたいなことを、プラス思考といますか、肯定的・積極的にものを見て、それでみんな仲良くそしてまた心豊かにそして未来・目標・夢や希望を持って、どんなことを思いますかという風な感じで、この道徳の物語・取り上げたテーマの本を読むことで子供たちがいったいどんなふうなことを考えたらいいのか、ルールやマナーや思いやりというようなものを勧めてるようなそういう本でした。
まぁさすが、道徳の本も裏を見たら、いろんな大学の先生やいろんな学者さんの名前がずらずらずらーと30人ぐらいだったかなぁ?並んでてて、この人たちがうんうんうなって、子供たちのために書いた本ですから、そりゃやっぱりもう素晴らしい内容だったんですけども、私・お坊さんからしたらちょっと気になるなぁと思うのが、やっぱり道徳というのは宗教とは違うんで。それに学校ですからと特定の宗教を教えるというのはよろしくないと私は思うんです。
お坊さん見習いの時に、先生から「道徳は宗教とは違う」って聞いて、学校のような国がする教育場所は特定の宗教を教えたらいけないから、合掌とか南無阿弥陀仏とか南無大師遍照金剛とかそういう言葉は使うべきではないんですよみたいなこと教えられたんですけども、その来年の道徳の教科書を見ると、「神様に祈る」とか「おひさまに手を合わす」というように祈りの対象を書いてあったり、もしくは「神様の天国に行った」とか、そんな事を書いてるんですね。天国と言ったら仏教じゃなくてキリスト教ですから、そんなことを言っていいのかなと思いました。
またこれは後日お話しようかなと思うんですけども、仏教というのは天国じゃないんです。仏教の人が行く世界というのは天国じゃないんです。キリスト教の人が救われる神の国というのが天国なんです。これがイスラームだったら楽園と言われるところですね。神道ならあの世だったり常世ですね。で話を戻すと仏教だったら「仏の国」、これは難しい言い方をすると、仏の国のところで「仏国土」もしくは清らかなところということで「お浄土」。他にもいろんな言い方をするんですけども、1年生から6年生の道徳の本をパラパラ見た感じ、3・4ページは少なくとも教科書の中で神様や天国という言葉が出てきたんです。まあこの言葉を使わないと説明できないのかなという気もしなくもないことはなかったんですが。
まあ道徳を作る上において、ある程度宗教的な側面、祈りや願いや念じる、そういうところも言わないといけないのかなあと思いました。
もちろんキリスト教とかもしくは自然崇拝みたいなところ以外にも、神道がいうようなシャーマニズム、アミニズムと言いますか、そんな自然崇拝だけじゃなくて、例えば仏教的な「おかげさま」という言葉もちょっと取り入れてましたね。いわゆる「ご縁」と言いますか、目に見えない世界で生かされているというその仏教、いろんなものが繋がってるというその仏教的な精神のおかげさまというのも紹介されてたんです。
ですから何でしょう。
特定の宗教の言葉は使わないにしても、やっぱり子供に道徳を教える上では、その宗教を匂わせるような、そんなこともやっぱりしないといけないのかなと、その道徳の教科書を読んで思いました。
まあでも繰り返しになりますけども、小学生の習うことはすごいなあと思いました。英語も5年生6年生で習うんですけども、これを知ってたら複雑な会話できなくても自分一人でアメリカのところ、ヨーロッパでもいいですけども、英語が通じる国でしたら、迷わずに旅ができたり電話かけたり宿泊できたりと、一通りのことはできるんじゃないか生活できるんじゃないかというふうな内容がしっかり書かれてて、理科も凄かったですよ。もう子供で科学実験のようなことを学ばせるって凄いなあと思いました。
本当にもう最近の~。私も習ったかもしれないですけども、小学生が習う教科書というのは、大人でも非常に参考になる、学ばないといけないような優れた本でした。
私が年取ってボケがすすんできたら、ぜひ小学生の教科書を見せてほしいです。
もしも皆さんも、私の町の図書館だけかもしれないですけども、丸亀市立図書館もしくはその他の図書館に行ってみたら、来年の学校教科書があるかちょっと確認してみてはどうでしょうか。ちょっとパラパラめくってみたら「あ~すごいな~。こんなことも習うんだ。これは為になるなぁ」と思うこともたくさん発見できると思います。
ラジオの補足
学研の道徳教科書
ラジオの中で紹介しましたが、丸亀市が採用する道徳教科書は「学研(株式会社 学研教育みらい) 」が発行している『新・みんなの道徳』です。学研のTue, 17 Sep 2019 - 11min - 367 - 番外1.円龍寺本堂法話 / 2019年秋永代経法要
円龍寺ラジオのエピソード番外1。2019年9月9日に円龍寺本堂での本山布教使による法話です。「阿弥陀仏ってどんな仏」がテーマです。
お詫び
ラジオの容量を減らすために、雑音が酷い個所などをある程度、編集・削除しています。
ラジオの補足
聞薫習
長いお話を聞くのは大変ですけども、聞いている間だけでも「ああ、よかったなあ~」、「お参りしてよかったなあ」と一瞬でも思っていただければ幸いです。
そうは言いましても、寺の門から一歩出るとすぐ忘れる身ではありますが、先生はさきほど薫習(くんじゅう)という仏教の言葉を使いました。
薫習とは、毛穴から身に入るという意味です。
浄土真宗では薫習に、聞くという字を足して「聞薫習(もんくんじゅう)」といいます。
* 私たちはどこまでも聴いて、聞いて聞いていかないといけない* 知っている人ほど聞かない* 知ってるつもりの人ほど聞かない* 知らないと自分が自覚できる人がはじめて聞くことができる
今日ラジオの音声を聞いた人は、ご縁をいただけた人が聞けたのです。
聞いて聞いてたずねていって、そして手を合わしていく。それだけで十分でないでしょうか。南無阿弥陀仏
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Tue, 10 Sep 2019 - 1h 02min - 366 - 9.富士霊園に行った話 / 香川の僧侶が静岡の冨士霊園にお参りした感想
第9回目のラジオ配信。「富士霊園(静岡)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
「香川のお坊さんが、富士霊園に行くっておかしいと思いますか?」
昔と違って、ご門徒さんがお寺の近くじゃない、だんだん遠いところに皆さん住まわれるようになりつつあります。生まれの実家は香川でも、現在は岡山だったり愛媛県だったり徳島、都会の大阪や、もっと遠くの静岡とか東京とか、そういうところにも行っているんですね。
元々住んでいたところよりもお寺がある所よりも遠いところで、ご家族がお亡くなりになると、皆さんはどうしますかね。やっぱり先祖が世話になっていたお寺に、一言お声をかけてお参りして頂けるなら、通夜・お葬式そして納骨・年忌法事を依頼すると思います。
今回私は8月のお盆の前に、静岡県の富士霊園というところにお参りに行きました。
お参りの案内をして下さった施主は、葬儀を静岡でして、四十九日・納骨を富士霊園でしました。そして一周忌には生まれた香川の私のお寺で法要して、寺にも納骨をしました。
そして今度また三回忌に、「お骨を納めた富士霊園でのお勤めをお願いします」という依頼があって、富士霊園にお参りしました。
今回はその富士霊園にお参りに行った旅と言いますか、静岡や富士霊園に行ってどんな経験をしたのかお話をちょっとしようかなと思います。
単刀直入に言うと、富士霊園は香川では見ないぐらい広くて立派な場所だなあと感じました。「香川って狭いでしょ?」香川のスケールでは想像できないほどの規模でした。
静岡に新幹線に乗って行って三島という駅で降りて、それで三島駅のすぐそばのホテルを施主が用意していただき一泊し、翌朝、ホテルまで施主が車で迎えに来てくださって富士霊園まで向かいました。
三島駅近くのホテルから私を拾ってくれて、40分ぐらいですかね。北方向に真っ直ぐ真っ直ぐ走っていたら富士霊園に着きました。車の中で、静岡がうなぎが有名な話になって聞いてみると、やっぱり新幹線に乗っていて気が付いたのが、静岡県の西部の浜松を通ってましたら、ひらがなで大きく「う」って書いてる看板がたくさんあって、ああこれはきっとうなぎのことなんだなあと思っていたことや、富士霊園に向かいながら右手の山は箱根駅伝で有名な箱根の山だとか、富士霊園は富士山の麓にあるらしく左手に富士山がきれいに見えるんですよという話をしてたら、あっという間に着きました。あいにく台風が近づいていて、富士山は雲に隠れていましたが。
富士霊園について最初にびっくりしたのが、「伊勢神宮みたいやなあ」って感じたんです。もちろん伊勢神宮とは全然違うんですよ。でも伊勢神宮みたいに、なんか壮大な感じがしたんですね。入り口入って急に広い道路ですか、空間が目の前に広がって、左右に綺麗に整えられた松があって、芝生をきれいにに整えて、つつじがきれいに丸く整えられていて、管理されててすごいなあと感心しました。
そのまま車に乗った状態で真っ直ぐ走っていて、左手の方にある管理事務所ですかね、富士見会館という建物の駐車場車に止めて中に入ってたんです。お盆の前だったからか、駐車場にたくさん車が止まってました。
でその富士見会館という受付場所ですかね。そこにもたくさん人がいました。
施主が受付で、「今日の予約の確認をしてきます」という間に、私、富士見会館のあちらこちらをちょっとキョロキョロしてました。
そしたらまあ面白いのがあって受付の前の壁に、年忌法事というか、神様の神道や仏教の年忌、何年のお勤めをしてくださいよという風な貼り紙があったんですね。興味があって見ると、「もう書けるだけ書いておこう」という風な感じだったんです。一周忌3回忌に7回忌、13回忌17回忌、23回忌25回忌27回忌、33回忌37回忌、43回忌47回忌、48回忌もあったかな?50回忌と、「もうこれすごいな。全部網羅するように書いてるんだな」と思いながら。神様の方は1・2・3・5・10・20・30・40・50って書いていて、「いや~、そんなに全部する人いるのかな」と思いました。
他にもお参りの人全員がそろうまで時間があったので、富士見会館の別館で待ってますとそこには売店があって見てますと、お花が売られてて、「ああここは霊園だから、法事の他に墓参りの人のための花が売ってるんだなあ」と思いました。値段はそこそこな感じでしたかね。他にもけっこう面白いなあと思ったのが、宇宙桜線香だったかな?宇宙を旅した桜の線香が売られていました。こん線香ももあるんだと思いました。
で法事の時間が近づいてきて、私、法事用の衣に着替えようと思ったんですね。でもそんな僧侶控室、きちんと用意されてなかったんです。3回忌で、浄土真宗で田舎のお坊さんですから、法事には色衣というきれいな衣と・五条袈裟という5つの布を織った袈裟を持ってきてたので、「ちょっと着替える用の部屋が欲しい」と言ったら、「じゃあそこなら、開いてるからどうぞ」みたいな感じで、まぁ反省部屋のような小さい部屋をいただいて着替えました。
その後、法事ができる場所、礼拝堂(れいはいどう)ですかね?礼拝堂(らいはいどう)というのかわからないですけど、その建物に「予約しているご家族様はお集まりください」みたいな園内アナウンスがあって、行きました。すると「2つ分の1時間をとってますので」と職員の方から説明がありました。
田舎で、それに浄土真宗の法事でしたら、もう1時間半から2時間ぐらいの法事がざらにあるんで、1時間でも短いくらいでした。まあサービスでしょうか、1時間10分くらいの時間を用意してくれてました。
急いで急いで、中休みもなしで読経して、法話・お話を話して、なんとかジャスト1時間5分ぐらいで終わらせれました。終わると、会館の職員から「お疲れ様でした長かったですね」みたいな事を言われたのですけども、私からしたら、「もう短くて短くてものすごい焦って、詰めて詰めて勤めあげた」という感じなんです。
で法事が終わってホールを出ると、またすぐにアナウンスがあって、次の法要待ちのグループを案内してました。私は朝一番の9時頃ぐらいに富士霊園に着いて、10時開始ぐらいの法事だったんです。壁に「今日の法要予定一覧」が壁に書かれててみると、お盆前で15組ぐらいあったみたいなんですね。私は浄土真宗ですけども、見ると、浄土真宗が四つ、真言が一つだったかな、禅宗系が四つで、キリスト教が一つ、神道が一つで、あともろもろの宗教が四つくらいだったような記憶があるんです。
まあ富士霊園は大きいですから、「色んな仏教宗派、仏教以外のキリスト教や神道とかそういうところも宗教儀式ができる複合的な所なんだなあ」と、はっきり確信することできました。
その後、お墓の納骨した場所、墓石のところも拝んで欲しいということで、霊園内は巡回バスですかね、それがあったんですけども、私たちは今日、車で来てたので施主の車に乗せてもらいました。
広いんで乗り物で移動しないと、もう全然間に合わないような場所です。車で1分ぐらい走っていくと、もうすっごい広くて奥にも奥にもありました。
私が行った場所は新しいところの墓ですから、墓石の大きさがカクカクと皆さん揃ってて、お金を払ってたら花を植えて手入れしてくるようなサービスがあるらしいですけども、まあそういうのを見ながらお墓のところで、新しい生のお花をお供えして、それでお線香をあげて、5分程度の短いお勤めをしました。
台風が迫っているお盆前で、8月で暑い時期だったんですけども、やっぱり静岡県の富士山の麓は風が少しさわやかな感じがしました。
ただお墓でお勤めの間、だいぶ気になったのが、すぐそばにある富士スピードウェイというサーキット場があるんですよ。そこからブインブインブイーンという音が響いてきて、それがセミの鳴き声...Mon, 02 Sep 2019 - 15min - 365 - 8.地蔵盆とは / 失われつつある地域のお地蔵さんのお盆
第8回目のラジオ配信。「地蔵盆」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
地蔵盆という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
地蔵盆とは、「お地蔵さんのお盆」ということです。地蔵盆をされていない地域では、「お地蔵さんのお盆」と聞いても、ピンとこないかもしれません。地蔵盆がいつ・何日に行われているのかも知らないことでしょう。
地蔵盆は8月24日に行われることが多いです。一般的なお盆が8月の13日から16日にありますよね。そのお盆が過ぎた一週間後の、23日ないし24日に勤められるのがこの地蔵盆というお盆の仏教行事です。
どうして地蔵盆が8月24日のにあるかご存知ですか?それは、24日がお地蔵さんの縁日とされるからです。縁日というのは、あまり浄土真宗では考えないのですが、そういう考えもあるということで聞いてください。縁日とは、それぞれの仏様との強いご縁のある日という意味で、例えば毎月15日が阿弥陀如来の縁日。毎月18日が観世音菩薩の縁日。毎月23日が勢至菩薩の縁日。毎月21日が弘法大師の縁日。
* 毎月15日:阿弥陀如来* 毎月18日:観音菩薩* 毎月23日:勢至菩薩* 毎月21日:弘法大師
となっているように、1日から晦日のそれぞれの日にちに、いろんな仏様や菩薩や高僧・偉いお坊さん達の縁日と定めて、それでその縁日にその仏さま菩薩高僧のお勤めをします。
毎月24日がお地蔵さんの縁日ですので、一般的なお盆の月とされる8月にある24日は、地蔵盆として、京都をはじめとして、関西方面では、広く行われている仏教イベントとなっています。
私の寺の住職が京都の東山、霊山(りょうぜん)と言われる場所で、霊山本廟長をしてました時に、その霊山にある子供会かな?自治会の方が、地蔵盆をする時に霊山本廟長に案内をして、それで地蔵盆の読経・法話に行ってました。
最近では地蔵盆をしていない地域もだいぶ増えたことでしょう。香川にある私のお寺のすぐ北側にある地域では、今もずっとこの8月の24日に、地蔵盆が町内会・自治体で続けられています。
地蔵盆は、お地蔵さんのお盆ですが、怪しい・奇妙だ・何をしているのか分からないと不審がる人もいるでしょうか。
地蔵盆だからといって、特段変わったことをしていませんよ。それこそ私のところは浄土真宗ですから、阿弥陀さんや観音勢至を拝むのですが、地蔵盆ではお地蔵さんも拝みます。
それは地蔵盆が古くから、その地域に根ざして続けられているからです。お地蔵さんは路傍・道端にいる菩薩像ですが、地域の守り神・子供の守り神としての信仰もあわせもち、地域の信仰の場となっています。
さきほど、私のお寺の北側の地域でも地蔵盆が続けられていることをいいました。しかしその地域は、南無阿弥陀仏の浄土真宗が根付いている地域です。お地蔵さんとは関係がないように思えるでしょう。
しかし地域を守り続けていたお地蔵さんは、宗旨が違えども、1年間常に、地域の人々が清掃をしお花を入れ替え、お供物をお飾りしてきています。お地蔵さんに敬いの心があるからです。
8月24日の地蔵盆では、地域の人が提灯を飾りお菓子などを多くお供えを準備し、お坊さんを呼び地域の人たちと一緒にお経を唱えます。
地蔵盆は私たちと関係ないとするのではなく、古くから地域を見守って下さったお地蔵さんを敬い、お地蔵さんのお勤めをする中で、先祖を敬うことや、仏法にであっていくことができるのです。
今ではもう見かけることも少なくなりましたが、かつての地蔵盆は、地域の子供さんが親子そろって、家族集まって参加し、そのお地蔵さんを通して、子供の健やかな成長や交通安全や無病息災・家族円満・夫婦円満などを願っていました。
24日の地蔵の縁日の中で、特に8月24日の地蔵盆を大切にするというのは、やっぱりお盆の後・夏休みということもあって、小さいお子さんから家族揃って参加でき、また地域によっては盆踊りであったりと、子供の遊びの場・地域の交流の場としての意味合いもあったことでしょう。
8月24日の地蔵盆は、地蔵への信仰という意味だけでなく、子供のため・家族のため・地域のためというイベントでもありました。
最近ではお坊さんを呼ばなくなった地蔵盆もあります。町内会・自治会が縮小して、地蔵盆しなくなったところ、やめてしまったところもあります。
地蔵という菩薩さんは、一つの村に一つは昔からあったはずです。地蔵が地域の守り神のようなはたらきがあったからです。規模の大きい小さいはあっても、お地蔵をお祀りするという習慣は昔からあったはずです。
しかし最近では、地域の交流・家族の交流がだいぶ失われてしまったので、地蔵盆がなくなったり、さらにはお地蔵さんに手を合わすという機会がなくなってきつつあるのが寂しいところです。
さいごになりますが、皆さんもちょっと思い起こしてください。自分の住む町内のどこに、お地蔵さんの像があるでしょうか。お堂にまつられた立派な地蔵のこともあるでしょうし、道端に・田んぼのあぜ道に、石の塊としてポツンと置かれていることもあるでしょう。空襲などで破壊されていなければ、1つの町に1体は必ずあると思います。
失われつつある地蔵盆ですが、地域を守ってくれていたお地蔵さんの存在を、今一度、確認してみてはいかがでしょうか。
ラジオの補足
お地蔵さんとは
地蔵盆は、お地蔵さんのお盆です。ラジオでもそう説明しましたね。
では地蔵とはなんでしょうか。簡単に説明します。
地蔵は「お地蔵さん・お地蔵さま・地蔵尊」と呼ばれることが多いでしょうが、「地蔵菩薩」が正式な名前です。仏さまになる前の修行者である菩薩です。
ただお地蔵さんは、仏に成ることができたのに、あらゆる衆生を救うためにあえて菩薩のままにいることを誓われたのです。
私の想像ですが、お地蔵さんはおそらく、日本でも最も人々の目に触れられた菩薩像だと思います。あなたが気が付いていないだけで、街中には多くお地蔵さんがいます。お墓にもいます。
観音さんと似ているのですが、地蔵さんも様々に姿を変えて人々を救おうとします。
「延命地蔵・子育て地蔵・水子地蔵・六地蔵・化粧地蔵・身代わり地蔵・一言地蔵・縛られ地蔵」などなど、その人・その状況によって様々な地蔵さんがいます。それがお地蔵さんという、あえて仏に成らなかった尊いお方です。
色んな地域のお地蔵さんを見つけて写真・解説している、『お地蔵さんブログ』は面白いですよ。
私の住む近くにある中津万象園の中には、石を投げつける「石投げ地蔵尊」もあります。また伝説ではありますが長福寺というお寺には、かつて丸亀城の石垣に使われ、包帯で巻かれた地蔵尊の話もあります。
https://kaxtukei.com/marugame-jizou
https://kaxtukei.com/banshouen-sansyamairi
Mon, 26 Aug 2019 - 9min - 364 - 7.夏のお寺は涼しいのか / 寺に行くときは熱中症に気をつけましょう
第7回目のラジオ配信。「夏のお寺は涼しくて気持ちいいのか。暑くないのか」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
8月16日のお盆が過ぎますと、なんとなしに朝晩の暑さが和らいできて、ようやく残暑も少しは過ごしやすくなってきたように思います。
特に今年は15日に台風がやってきたのもあって、過ぎ去るとちょっと涼しくなりました。
8月暑い時になると、お坊さんはこんなことを言われます。「夏のお寺の本堂は涼しくてよろしいんじゃないんですか?」って。
正直なことを言うと、お寺の夏というのは涼しくないんです。外にいるのと同じような感じです。本当ですよ。
お寺であったとしても、夏涼しいわけではないんです。
どうして皆さん、お寺の本堂が涼しいと思われるんでしょうかね。夏の気温が高くなかった昔は、お寺も涼しかったと思います。
お寺が涼しくない理由をいくつか挙げてみます。
ひとつは天井が高いですね。すると日中の熱がその天井にこもるんです。床も高く、隙間風もあるから風通しもいいんですが、最近の夏は35度以上にもなるでしょう。そうするとどれだけ風通しがよろしくても、空気そのものがむわっとして、もう熱風になってますので、風通しが良くても暖かい風ばかりが送られてきて、全然涼しくならないんです。
私、つい最近、とあるお寺の本堂でのお葬式に参加したんですけども、私、生まれて初めてあの氷柱というもの見ました。あの氷の柱ですね。
冷房機の無い時代は、お座敷やお堂で、氷柱を置いて涼を取っていたようです。暑い夏に涼しさを届けるためですね。
氷柱の後ろに扇風機が設置されていて、私、その氷柱の前におったんですけども、まぁそこまで期待していたほど、涼しいわけではなかったです。お寺の本堂を冷やすのであれば、10個や20個と大量の氷が必要だったんじゃないんですかね。
お寺は実はあんまり涼しくないんですが、お寺の本堂が涼しかったと言われる人もいらっしゃるんです。
それは例えば、神社のように周りが木々でうっそうと茂ってるところや、あるいは山の中や池の近くにあるお寺ではなかったのでしょうか。木々で夏の暑い日差しが遮られてるような場所は、空気が若干ひんやりとして涼しく感じるんです。
でも平野や街中にあるような一般的なお寺というのは、そんなに夏涼しくないんです。
私のお寺は、毎年9月の9日に、秋の永代経法要というのをしてるんです。9月になりますと最高気温が30度以下の日も多くなって、お寺の法要をするにもよろしいんですけども、10年以上前に一度、本当に暑い9月9日が来て、お寺の暑さ対策をしなくてはならない時がありました。
といっても、お寺を涼しくするなんて急にはできないので、その時は塩キャラメルやキャンディーをたくさん用意して菓子器に盛ったんです。そしたら大好評で皆さんどんどんどんどん取っていて、全部無くなってしまいました。またお寺の縁と言われる場所。本堂の外側の場所ですね。そこにブルーシートを敷いて、机をその上に置いて、発泡スチロールにたくさん水と氷を張って、でそこに大きな大きなペットボトルを5・6本ぐらい用意して、「どうぞご自由に飲んでください」っていうことをしました。
本当に暑かった9月9日ですので、キャラメルや飴だけじゃなくて、本堂の縁に用意した飲み物もしっかり空になってました。でも今思えば、ちょっと失敗だったかなと思います。
ペットボトルを氷水から抜いてコップに注ぐ時、やっぱりボタボタと、ペットボトルについた水が落ちてたので、本堂がビチョビチョに濡れてしまいました。
それ以降はそんなに暑い9月もないので、冷たい飲み物を出すことはなかったんですけども、まぁ何度も言ってますが、お寺というのはそんなに涼しくないんですね。むしろもう外の暑い空気と同じ中、冷房も効いてない空間でお勤めする・法事をする・葬式をすることは申し訳ないなあと思うのが、実際の本音なんです。
「お寺にエアコンぐらいつけたらいいんじゃないですか」と思われる人も多いと思います。
でもお寺はすきま風が多いので、冷えにくいんです。本堂の柱と壁を見るとわかるように、大きい建物ですから下の方・床の方はほとんど隙間がなくても、上の方・天井の方に行くと、どんどんどんどん隙間が広がっています。床の下からの隙間もあるから、なかなか冷気がたまらないんです。
また、エアコンをつけようと思っても、規模にもよりますけどもお寺の本堂は、40畳50畳60畳100畳とかありますと、なかなかそれを賄うだけのエアコンを取り付けるのが大変ですし、たくさん付けるとブンブンゴーと音がします。お寺の外に室外機がズラズラズラーッと並んで見た目も悪くなります。電気代もかかります。なによりも風で蝋燭が揺れて、本堂の中で蝋燭が使えなくなるんですね。
ですので、なかなかお寺の夏は暑いですし、その夏の暑さをどうやって対応すればよいかは難しいところです。
私が今思ってるひとつの案は、8月6日の広島平和記念式典を見てますと、去年からミストシャワーをしてるんですね。
テレビの映像を見ると、去年よりもあのミストシャワーの規模が大きくなったように感じます。私が最初にミストシャワーを見たときは、あれって参列者の人の服とかが濡れて困るんじゃないのかなと思ってたんですけども、参加した人に聞くと、「なんか霧状のやつがしっとりとするだけですから、そんなに気にならなかったですよ」って言われてました。
濡れて困らないのであるなら、もしそんなに価格もしないのであれば、音もしないですし暑い空気も冷えるなら、ミストシャワーというのもいい手かなと最近になって思ってます。実際にするかどうかは、まだまだ検討の段階ですけども。
さて、お時間が参りましたので、お坊さんかっけいの小話はここで終わります。
今回は「夏のお寺の本堂って涼しいのは本当」というお話をしました。
平地や市街地にある普通のお寺というのは、夏、全然涼しくないですよ。木々に囲まれた神社や山の中にある 寺であれば涼しい・涼を感じるかもしれませんという内容でした。夏のお寺というのは暑いので、お坊さんもどうやったらお参りの人が気持ちよくなれるのかなあと悩んでいるんです 。
ラジオの補足
お参りの人にやさしくないお寺
お参りの人は高齢化になりつつあります。お寺には十分な冷暖房機も無ければ、一段一段の段差が大きく、足腰の悪いお年寄りには辛いことがあります。
「お寺の本堂は涼しい」というのは昔のはなし。あるいは木々に囲まれたお寺のことす。一般寺院では熱中症に気をつけなければなりません。
今回のラジオ内容は、以前私が書いた次のブログ記事と関連しています。そちらも読んではどうでしょうか。
https://kaxtukei.com/natuhondouatui-blog
https://kaxtukei.com/temple-think-measures-against-heat-stroke
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Tue, 20 Aug 2019 - 9min - 363 - 6.「盆・凡・煩・梵・坊」の意味 / 辞書に載る5つのボンはすべて仏教と関係のある漢字
第6回目のラジオ配信。「5つのボン(盆・凡・煩・梵・坊)と仏教の関係」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
8月13日は一般的にお盆の時期です。世の中、多くの地域では8月13日から16日ぐらいがお盆の期間とされているのではないでしょうか。
もちろん7月にお盆があるところもあれば、8月始めもしくは8月終わりごろにお盆を迎えることもあると思います。私の住んでいる西日本・香川県では8月13日頃になりますと、お盆を迎えたご家庭の所に、僧侶の私はお盆参りを今しているところです。
お盆のお話をしてもよかったのですが、お盆というのは毎年毎年日本全国各地で行われている仏教行事ですので、今日はお盆という行事のお話ではなくて、「ボン」という音・漢字についてお話ししようと考えています。
広辞苑をはじめとして、国語辞典で「ボン」という言葉を調べますと、辞書によって微妙に違いますけども、基本、「ボン」に対して五つの漢字が紹介されているはずです。
一つは、分けると皿で構成されたお盆という行事の「盆」ですね。もう一つは、かぜかんむりの中に点がある「凡」ですね。
次は煩わしいと読む、火へんと本のページを表わす「煩」。あと、かぜかんむりの中に点がある漢字の上に林が書いてある「梵」。さいごに土へんに方角の方がある「坊」。
この五つの漢字がおおよそ全ての国語辞典の「ボン」に登場していると思いますが、実はこの五つの漢字は全部、仏教に関係する言葉なんです。
* 盆(ぼん)* 凡(ぼん)* 煩(ぼん)* 梵(ぼん)* 坊(ぼん)
辞書で一番最初に出てくる「盆」ですけども、皿と分けると書きますが、これは正にこの時期のお盆という仏教行事の盆という意味なんです。この盆というのは、お茶といった器を運ぶ時に使う意味が一般的ですが、仏教では、お盆の正式名称である盂蘭盆の語源になったインドのウランバナの「バナ」の当て字が、この「盆」という漢字なのです。
次に、かぜかんむりの中に点という三画しかない非常に画数の少ない漢字ですが、この「凡」というのは、仏教では愚かなことや迷いがある状態のことを表します。
一般的には、非凡な才能とか凡人のように、普通ではない人もしくは普通な人みたいな感じで使いますが、仏教では凡夫や凡愚のように、一般の人々もしくは愚かな人々のように迷いがある状態の人を表わすときに、この「凡」という漢字を使います。
次に3番目に出てくるボンは、煩悩の「煩」ですね。煩わしいとも読む煩ですが、仏教では煩悩という言葉が非常に人間の根源的な悩みでして、生老病死という苦しみの中を、絶対私たちの日々の生活の中で出てくるこの心の様々な悩みや迷いのことをこの「煩」と表現します。仏教というのは煩悩をどうやって断ち切るか、もしくは煩悩をどうやって転じて幸せにしていくか、そういうことがこの「煩」という漢字ですね
次は先ほど言った凡人の凡と言いましょうか。このかぜかんむりに点に林が書いている「梵」です。一番有名な言葉でしたら、お寺の大鐘。梵鐘と言いますね。あの「梵」というのは、先ほどの非凡や平凡、あちらの画数が三つの短い凡は愚かなとか迷いがあるというちょっとネガティブな意味ですが、その上に林がついた「梵」には仏様の清らかな世界という非常に素晴らしい意味があります。ですからお寺の鐘を梵鐘というのは、ただ単に時間を知らせたり仏教行事を知らせるという意味だけじゃなくて、仏法が四方八方に様々な人のところに響き渡ってるんですよという事を表してるのが、お寺の梵鐘・大鐘というこの「梵」という漢字ですね。
最後に5番目の字。土へんに方角の方が書いてる字ですね。これは簡単に言うとお坊さんの「坊」です。お坊さんの「坊」って僧侶の「僧」とはどう違うのかと言いますと、僧というのはお坊さんという人、坊というのはお坊さんが住む住居の場所のことを言うらしいです。ですからお坊さんが自坊のお寺という言い方をしますと自分が普段いるお寺、自分が住んでるお寺のことを自坊って言うんです。あるいはちょっとかしこまった言い方をしますと、本坊と本当に自分がいる坊として、本坊という言い方をすることもあります。
今回は国語辞典で「ボン」という項目を調べてみると、 全部で5つの「盆・凡・煩・梵・坊」という5種類の漢字を挙げましたが、これらすべてが仏教に関係する漢字だということを紹介しました。
よろしければもしもお手元に辞書があれば、実際に開いてみて「ボン」の項目を見ていただけたら、私が今日言った内容と似たようなこと、また私が説明足りていないような「ボン」の漢字の説明があると思います。
辞書によっては、あと2つほど「ボン」と読む漢字を挙げていることもあるでしょう。その字も実は仏教に関係する言葉です。その説明はブログにて致します。
それでは8月13日の今日は、「ボン」という漢字を5つ紹介しました。皆様もお盆の期間ですので、お寺であったりお墓であったりと、ご先祖様やそのご先祖様が手を合わせてきました仏様に手を合わせて仏法に耳を傾けてはいかがでしょうか。
ラジオの補足説明
本と品の意味
辞書にはボンの項目に盆・凡・煩・梵・坊の5つの漢字を挙げています。しかし辞書によっては「本」や「品」が載っていることもあります。
本と品も仏教と関係のある言葉です。
本には「本当の本」、「大本の」という意味があります。例えば仏教では次のような言葉で使われます。
* 本尊(最も大切な信仰の対象となる尊い仏様)* 本願(仏様や菩薩が人々を救うために誓われた願い)
仏教は本当のことを伝える教えです。それは時代が変わっても変化することのない世の中の真理のことです。例えば生老病死の苦しみのことですね。
品は一般的には上品下品(じょうひんげひん)と読むでしょうが、仏教では上品下品(じょうぼんげぼん)と読みます。
これは仏様の国に生まれるにあたって、その人の能力が優れているのか(上品)、それともどうしようもない人であるのか(下品)であるかのように分類した考えです。
ちなみに浄土真宗では一番下の位である下品下生(げぼんげしょう)の人こそが、阿弥陀仏の救いの目当てです。仏様や仏教仏法を誹謗するだけでなく、背を向けて逃げようとする人こそ救わずにいられないのが阿弥陀という仏様です。
上品や中品の人というのは優れた自力の人ですので、阿弥陀さまのはたらきが無くても自分で悟りに近づくことができるでしょう。
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Tue, 13 Aug 2019 - 8min - 362 - 5.線香は立てるのか寝かせるのか / 仏様にお供えする線香について浄土真宗の僧侶が説明
第5回目のラジオ配信。「お線香は立てるのか?寝かせるのか?」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
ラジオテーマ「線香」の内容まとめ
* 浄土真宗はお線香を立てずに、寝かせる* 香りの良いものを焚いて身を清めてたのがお香の始まり* お花やお光と同じように、仏様にお香を供える* お線香が代用で使われるようになった* 浄土真宗の大きな寺では燃香を押し固めて蛇のように寝かせて、何時間もお香を焚き続けていた。常香盤といい、お線香を寝かせる理由となっている
音声の文字起こし
お参りに行きますと、お線香を立てられる方が非常に多いんです。私は浄土真宗ですから、お線香を立てることはしないんです。
でも世の中一般的に、お線香を立てる宗派がほとんどですし、観光地に行きますと、お寺の本堂の外に大きな香炉があって、それに皆さんお線香をたてるんですね。
ですから皆さん何となしに、「お線香って立てるのが当たり前でしょ?」と思われているようなんです。
もちろん今言ったように、お線香というのは、立てる宗派がほとんどなんです。一方で、浄土真宗という仏教宗派だけは寝かせて横にして使うと言われてます。
実際、私は浄土真宗なんですけども、立てる作法というのはひとつもないです。お線香というのはどの場面でも必ず寝かせて使います。
どうしてお線香は寝かせるでしょうかね?
浄土真宗のお坊さんが昔からよく言うのは、「立てて使ったら、危ない」って言うんです。なんで危ないかはわかりますよね。昔の家では、火事になりやすい場所が三つあると言われてまして、お風呂場の焚き口とご飯を作る台所の炊事場、それと油やおロウソクそしてお線香を使う仏壇なんですね。
私の住んでるところでも昔はお風呂場や台所やお仏壇での火事というのはあったそうです。お風呂場の焚き口で焚いていると、冬に猫が暖かいからと暖を取りに寄って来て、それで毛に火の粉がついて暴れまわって家を焼いたり、台所も昔はおくどさんというかまどがあって、それでご飯とかを炊いてたら、まあそこから火事なったりしたそうです。
で仏壇というのもロウソクの火をしっかり消したつもりでも、あとから線香が倒れたりして、畳だったりござだったりに火が移ったりして、それで火事になってしまうということが昔はよくあったんです。
今はなかなか毎日お仏壇にお参りして、ロウソクをつけたりお線香を供える家はだいぶ減ったでしょうから、お仏壇での火事というのは、昔ほどはもうそんなには言わなくなりましたけども、昔はお仏壇での火事という話はいくらか聞きました。
ですので浄土真宗のお坊さんは、「お線香は寝かして横にして使った方がよろしいですよ」ってよく言うんです。
そんな火事の説明をしますと、だいたいの人が「ああそんなもんですか」と頷いてくれるんですが、「なんで寝かすんですか。たてるんですか」ともっと突っ込まれることがあるんです。
ちょっとお香の話をしましょうか。
私たちが日常使うお線香といいますのは、そもそもはお香をくゆらすこと・お香をお供えすることなんです。
仏教が生まれたインドというのは暑い国で、またお風呂もそんなに入らないので不衛生なんですね。沐浴と言って川とかで水を浴びる風な感じで身を清めるんですけども 、川のないところだったり修行してたら、どうしても体が臭ってしまうんですね。それでそういう臭いを消すためにお香を、香りの良いものを焚いて身を清めてたのがお香の始まりと言われるんです。
それで仏教が中国や韓国や日本に伝わってくるようになったりするなかで、お花やロウソクの光を仏様にお供えするのと同時に、お香というのも仏様にお供えするようなったんです。
でお香と言ったら基本的に香木という香りの良い木を熱して仏様にお供えしてたんですけども、それは高価ですし、なかなか毎回毎回お香を供える準備をするのが面倒でしたので、それで燃香(ねんこう)または抹香(まっこう)と呼ぶ、粉末状にしたお香を燃やすのが代用品として作られたんです。
そしてプラスお線香という、一番最初は竹の棒や木の棒に燃香・抹香を塗って作ったのが、お線香として考え使われるようになったそうです。
ですからお線香とかというのはその仏様にお供えするお香の代用品なんですね。
でなんで浄土真宗はお線香を寝かせるかと言いますと、その仏様に供えるお香の代用品となった燃香というのを、ず~と長いことお供えできるようにということで常香盤というのを作ったんです。常香盤というのは「常にかおる番(器うつわ)」ということで、これが浄土真宗がお線香を寝かせるようになった一つの由来だと言われてます。
常香盤というのは作りは結構単純でして、大きな香炉を用意しましてそこに灰をふるいにかけて平らにならして、で蛇の形のようなカクカクと曲がった型枠を灰の上にセットして、そして型枠の内側がへこむように押さえて押さえて、そこに燃香を流し込んで固めて、最後型枠をのけたら長い蛇のような曲がった曲がった曲がったお香の塊ができるんですね。
でこれを端から付けると、ゆっくりゆっくりお香の熱が伝わっていって、何時間も長いことをお香の香り煙をお供えできるんです。ですから浄土真宗ではお香を長く仏様にお供えするために、その常香盤というものを使ってお香の粉末を寝かして、一連の長~いお香の線を作ってたんです。
ですから一般的にお仏壇が普及するようになった江戸時代以降、お線香をお仏壇にお供えするときは、その常香盤のように折れ線状にお線香を寝かせていって、お線香が端まできたら、またその線香の端っこを継ぎ足して、またその線香の端に新しい線香を継ぎ足してという風な感じで、お線香を寝かせて寝かしてちょっとずつちょっとずつ、お参りする時の状況に応じてお線香を使っていたんです。そんなこんなで浄土真宗ではお線香は寝かして使うというのが基本に、基本といいますか、もう当然のようになってます。
まぁ実際なんでしょうかね。先ほどの火事の話に戻しますと。浄土真宗でお線香を立てる家を見ますと、「まあお線香立てていても、それはそれでよく目立ってよろしいんですけども」、浄土真宗は お線香で長さ・時間をはかるとかはしないんですね。このお線香が尽きるまでの間、読経を繰り返すとか、念仏を唱え続けるとか、座禅・瞑想・修行をすることはしないんですね。
浄土真宗以外では、仏さまが食べるためだとか、修行する時間の長さ知るためという理由で線香を立てるらしいですが、そこは浄土真宗のお坊さんの私はよく知らないです。まあ、ただ他宗ではそういう理由で線香をたてるそうです。
けっこう浄土真宗のご家庭でも線香を立てる人が多いんですね。
浄土真宗の法事は長いのですが、お線香立てますと続けて線香を立てるときに、また灰に差し込まないといけないですよね。でもその灰の中には先のお線香の熱が残っていますし、元あった線香の真ん中に線香を立てようとするので、気が付かないうちに灰の方から下の方から火がついてお線香が傾いたり倒れたりするんですね。
またお線香を束ねてつけて立てますけども、1本や2本ついてないのがあって、周りの火のついた線香だけ下にいった時に、それが火のつかなかった線香に移って倒れて火事になったりすると言われてるんです。
もちろん実際にはお線香の熱ぐらいでは、火事にはなりにくくて畳をちょっと焦がすぐらいなんですけども、それでも紙に落ちたりすると火事になる可能性もありますので、まあ浄土真宗では伝統的にお堂で大きな香炉でお 香を長い時間使うことや、また一般のご家庭でお線香をちょっとずつ継ぎ足して使うようにすすめるためにその伝統として寝か...Tue, 06 Aug 2019 - 12min - 361 - 4.お坊さんがポッドキャスト配信をはじめて感じたこと / 音声の長さや話す速度はどうしていくべきか
第4回目のラジオ配信。「お坊さんがポッドキャスト配信をはじめた感想」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
今回の話のテーマは、ふつうのお坊さんが Podcast を始めて1ヶ月経って感じたことについてお話しします。
私は円龍寺かっけいブログという、お寺のブログをやってるんですけども、最近急にふと思って、音声のブログというのもやってみたいなあと思うようになりました。
ラジオ配信とは言っているんですけども、実際はポッドキャストというのに自分の音声を配信して、それでいろんな人に耳で聞いてもらおうとしてるのが、このかっけいの円龍寺ラジオです。
なにぶんもだいぶ手探りで1人でやってますので、最初は短い5分から10分ぐらいの、お坊さんの小話ができればいいなあと思ってたんですけども、1回目は7分と時間だけ見たら狙った通りの感じで配信できたんですけども、2回目になると10分、3回目となると20分を超えてしまって、「これはマズイ!!」と。ちょっと思った以上に、もうすでに短い雑談のようなおしゃべりができてないんです。
ラジオを聞いてくれた方に聞きますと、「なんであんなにゆっくり喋るんですか」みたいな感じで言われまして、実際私は今日はちょっと意識して普段通りの話し方でお話ししてるんですけども、第1回目・第2回目・第3回目のラジオを聞きますと、確かに、普段の倍ぐらいゆっくりと話してました。
もちろんゆっくり話してたのには、狙いがあってのことなんです。
お参りの方とお話ししている時と、このラジオでお相手の方の顔が見えない時の話し方というのは、やっぱり私は違うんじゃないのかなと思うんです。
私は浄土真宗のお坊さんですから、法事で1時間から2時間ぐらいのお勤めが終わったりもしくは祥月命日とかのお参りをしますと、その読経の後に家の方や周りの人と、仏教のことを話ししたり、世間話のような雑談をするんですね。
でもだいたい、仏教のお話をする時は、10分を目処にお話しをするように心がけているんです。それは住職から言われたことでもありますし、私自身が長くて10分かなあという風な経験で、10分と決めてるんです。
なんで10分かと言いますと、やっぱり仏教の話というのは皆さん聞き馴染みがないので、10分以上になると「この人何を言ってるのか全然わからん」みたいな感じになるんですね。またラジオになりますと、お相手の顔が直接見ることができないので、どうしても私の独りよがりでお話をしてる状態になるんです。
ですからなるべくゆっくりゆっくりお話しして、「今こういうお話をしてるんですよ。ちょっと考えてみてくれませんか」と促すつもりで、最初の3回の放送はゆっくりお話ししたんです。
でも実際私いろんな方のポッドキャストのラジオ配信を見ますと、皆さんだいぶ早口なんですね。もちろん早口の方がテンポが良くて、どんどんどんどん新しい話をしてくれるので、聞いてる側も非常に満足するんです。けれども20分や30分・それ以上と、テンポ良くポンポンポンポン言われて、さあイザどんな話だったのかと思って、冒頭振り返ろうと思っても、どんな始まり方をしたのか全然思い出すことができないんですね。
お坊さんの私も法話の時に、10分以上お話することもないことはないんですけども、そういう時というのはお参りの方とお話の掛け合いがあって、「これってどういう意味なんですか」とか、もしくは言葉がなくても頷いてくれたり、もしくはちょっと納得いかんような顔してる時には、少しお話の切り口を変えて伝えようとすることができるんです。
ですから1ヶ月間、今 Podcast でお坊さんのお話をしてるんですけども、普段の法話とはだいぶ話してる感じが違うなあと、今ちょっとまあまあ試行錯誤してるところです。
今、いろんな方の Podcast を、お坊さんの話・仏教の話を、私自身聞くことがあるんですけども、皆さんどれもこれも長いんです。
実際このポッドキャストというのは、アメリカが発祥なんですかね?アメリカが発祥で、大体どの番組も30分以上ぐらいが平均的な長さらしいです。というのも、アメリカのほうの平均の通勤時間が25分や30分ぐらいということで、その通勤時間に聞くちょうどいい長さを狙ってるのが、30分らしいんですね。
日本の番組を見てても、お坊さんの話を聞いてても、30分近くの番組が多くて、私自身も10分聞くのが限界かなあと感じるんです。で私が自分のラジオには、この方のが参考になるなぁと思うのが二つありまして、一つが RFC ラジオ福島で放送してます『日日是好日』というラジオ番組で、あの玄侑宗久さんがいろいろお話ししてるラジオ番組ですね。毎週水曜日に更新されていますけども、これは5分ぐらい。5分ぐらいと言いますか、5分きっちりに終わりますので、まあそれにまた二人で掛け合いながら話をしてますので、もうあっという間に気兼ねなしに聞くことできるので、これは参考になるなぁと、しょっちゅう聞いてます。
あともう一つは、FM OH!というところがしてる『笑い飯哲夫のサタデーナイト仏教』ですね。これは毎週土曜日に更新してますけども、だいたい10分程度のお話です。やっぱり笑い飯哲夫さんは漫才師ですから、この方は一人でお話ししてるんですけども、やっぱりお話が上手で、10分でも全然苦にならないんです。
ただ先ほど言った『日日是好日』も、この『サタデーナイト仏教』も、まあ仏教の話というよりかは、雑談のような話で、雑談の中にちょっと仏教のような話が混じってまして、ああこれは私がやりたい番組と、私が放送したいのとよく似てるなという風な印象なんですね。
私もひと月前から音声ラジオ。音声ブログと言ってもいいですかね。これをポッドキャストで始めましたけども、今は10分程度でさっと聴ける番組を目指して、で、足りないところはこの番組についてこういう補足説明しますよということを、ブログ記事で音声と一緒に文章を載せようかなあと思ってます。
本当は一番最初は、一週間に一度ではなくて、6日間に一度にしたかったんです。というのも、どうしても、毎日毎日生活したりお参り行きますと、話をしたいことがたくさん出てくるんですね。
でもまあ初めてのことですし、継続していくのが大事かなあということで、一週間に一度ということを決めたんですけども、やっぱり毎週同じ曜日に録音して放送するよりかは、まあ6や8とかちょっと微妙にずらした方が、曜日が一個ずつずれてお話しするのも、偏りなくお話できるのかなとも思ったんですけども、う~~ん、やっぱり無難に定期配信するということを考えたら、同じ曜日で配信しようかなと思って、一週間に一度、これから続けて行こうかなと思ってます。
ラジオの補足説明
ラジオトークと説法の違い
第3回目のラジオ配信『遺影とは?どんな意味が込められているのか?』は、確かに話す速度が遅かったです。
非常にゆったりというよりも、間の取り方が長かったです。試しに前回の22分のラジオ放送の間を短くすると、14分くらいに圧縮できました。
間を短くするとテンポがよくなり、耳心地はいいのかもしれませんが、話している私自身が「これは私の言い方じゃないなあ」と違和感を覚えてしまいます。
それにラジオトークを録音していく中で、お坊さんの法話とは性質が異なるなあと感じてきました。ラジオトークは結局のところ、音声配信コンテンツ(音声のブログ)ですので、文字起こし可能な内容でなければなりませんし、明確につたえる内容がなければなりません。
Tue, 30 Jul 2019 - 11min - 360 - 2.満濃池と空海 / 弘法大師(おだいしさん)のおかげで満濃池金倉川流域は水不足になりにくい
第2回目のラジオ配信をしました。お大師さんがテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
2019年の今年は、西日本は梅雨入りが遅かったですね。
私の住む香川県も、6月26日の梅雨入りで、今までで最も遅かったとのことです。
お坊さんの私は晴れていた方が歩きやすいですし、外の掃除もしやすいので非常に助かっていたのですが、一方で雨が降らないと困る人もいますよね。例えばお野菜を作る人やお米を植える人達ですね。
香川県は全国でもトップクラスに晴れの多い場所ですので、雨が降らないのには、まあまあなれっこな状態なのですが、今年の梅雨6月はちょっとあまりにも雨が降らなかったので異常に感じました。
香川県は自分の所をうどん県って自称してますよね。うどんをよく食べるからで、まあ香川県には、あのうどんには小麦粉を使って、それもさぬきの夢というオリジナルの小麦まで用意してます。でも香川県は小麦だけじゃなくてお米もそれなりに作ってます。
6月に入ったらコシヒカリとかを植えますかね。ちょうどこのコシヒカリの田植えの頃に梅雨入りしますので、水がぴったり田んぼに供給されるんですね。
それに香川県には満濃池という素晴らしい池があります。満濃池が毎年6月10日頃から15日頃にゆる抜きをして、水を放流しますので、満濃池から水が流れる金倉川周辺は雨が降らなくても水不足にはなりにくいんですね。
満濃池ってご存知ですか。
香川では知らない人がいないくらい有名なため池です。東京ドーム約13個ぶんの容量がある日本一の大きさを誇る池です。弘法大師空海が開いたため池という伝説がある池でもあります。空海さんのことを香川県では親しみを込めて「おだいしさん」と呼んでます。お大師さんという言葉は知らなくても、空海っていう言葉は皆さんご存知ですよね。
中国の唐に渡って、密教という教えを日本に持ち帰ったお坊さんです。中学校の時の教科書だったかな?歴史の教科書に、天台宗の最澄と密教の空海が中国から沢山の経典を持ち帰って、日本に仏教を広めたとあったような記憶があります。
空海は香川県の生まれって知っていましたか。
空海さんは現在の香川県善通寺市に生まれてます。
泥で仏像を作っていたとか、子供の頃から色んな逸話がある人です。まあ特にすごいのは7歳の時に崖から飛び降りた伝説もあります。崖から飛び降りたら天女がキャッチして救ってくれて、それで 仏門に入る決意というまぁかなり美化された話ですが、まあちょっとひねくれてみるとはただの投身自殺にも思えてしまう、まあそういう話もあります。
非常に優秀だった空海さんは中国の唐に行く許可をもらえて中国に渡って、それで密教の教えを日本に持ち帰ってきました。
その後、香川の生まれた家に戻ってきて善通寺というお寺を建てて、真言密教を広めて行きました。
今ではこの善通寺というお寺が、真言宗善通寺派の総本山になってます。その後しばらくして空海さんは、四国各地を歩いて回るんですね。それが今のお遍路さん四国八十八カ所のもとになってます。
その旅の間でも、おだいしさんのおかげで水が湧き出たとかの伝説が残ってたりします。
空海さんは「唐から帰ってきたんだ」「真言密教を開いたんだ」「善通寺を建てたんだ」「高野山を開いたんだ」「四国の山々は回ったんだ」「いろんな奇跡を起こしたんだ」と、まあスーパーマンのような人だったんでしょうね。きっと「そう思われたんでしょうね。
そんなこんなで朝廷から、満濃池の修理をしてくれと依頼されるんですね。
満濃池は空海が開いたと誤解されることもあるんですが、実際、満濃池は空海さんの100年前からすでにあるんですけどね。
でも唐から色んなことを学んできた空海さんはすごくて、たったの3ヶ月で堤防を修理したそうです。だから今でも「満濃池は空海さんのおかげ」みたいな雰囲気になっているんだと思います。
今日は梅雨の話から満濃池、おだいしさんの話とだいぶ内容がちょっと変わってしまいましたけども、要は雨が降らなくても香川県の満濃池金倉川の地域、私が住んでるところはまあなんとか凌げているという話でした。
それにラジオ収録している今は、けっこう雨が降ってます。今年は梅雨がずれこんでいるみたいですね。
もし香川県に行きましたら、善通寺の戒壇めぐりをお勧めします。善通寺の御影堂の真っ暗な地下を歩くやつです。
階段を下りて、100 メートル ぐらい進みますので、体が元気に動くときに行ってみてはどうでしょうか。
ラジオの補足説明
満濃池はどんなため池?
満濃池は、灌漑用(農地に水を人工的に供給する用)として日本一の大きさを誇るため池。
讃岐の国守道守朝臣によって、704年に造ったとされる。821年に空海が築池別当として派遣され、3ヶ月で修復する。空海による修復後も何度も破堤し、現在の貯水量1,540万トンの規模の満濃池は、1959年に完成した。
満濃池の情報は、まんのう町公式の『満濃池の歴史』が参考になる。
満濃池は毎年6月15日頃に「ゆる抜き」が行われ、金倉川流域の水田に水を供給します。
ちなみに私のお寺「円龍寺」は、丸亀市金倉町にあり、お寺のすぐ近くに金倉川が流れています。
善通寺について
善通寺の伽藍は813年6月15日に落慶し、父の「佐伯善通(よしみち)」の名から「善通寺」と号したとされる。
御影堂(みえどう)は、善通寺の西院にあります。西院は空海が生まれた佐伯家の邸宅があったとされる場所。
善通寺の御影堂(大師堂)
御影堂は善通寺で最も大切なお堂で、秘仏の瞬目大師(めひきだいし)や空海像や空海の両親像がまつられています。国登録文化財にも指定されています。
暗闇の中を歩く「戒壇めぐり」は、この御影堂の地下を歩きます。拝観料金は、大人500円しますが、御影堂奥の宝物館も合わせてみることができます。国宝の『一字一仏法華経序品(複製)』も見れます。元気なうちに行くことをおすすめしますよ。詳しくは善通寺公式サイト『総本山善通寺』より確認ください。時々、国宝の原品・原本を展示しています。
* 善通寺の住所:香川県善通寺市善通寺町 3-3-1* 駐車場は境内西側にある。普通車の駐車料金は200円
https://kaxtukei.com/kobomizu-zentsuji
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Tue, 16 Jul 2019 - 10min - 359 - 1.七夕と仏教 / 自分のお願いだけじゃなく、仏さまの願いも聞こうね
第1回目のラジオ配信をしました。七夕(たなばた)がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
音声の文字起こし
先日七夕がありましたね
七夕って漢字だけ見ると、非常に難しく感じるんですけど、みなさんはどう感じますか。数字の7と夕方の夕で七夕って私は読めません。7月7日にあるんで、もう7と7で、七夕なんだと私は覚えることにしました。
私も子供の頃は保育所にいた時、笹のところに大工さんになりたいなーとお願い事をしました。でも実際には浄土真宗のおぼうさんになりましたけどね。
私の住んでる街で商店街の所に行きますと、たくさん今も七夕の飾りがされていました。それらを見ますと、まあやっぱり今も昔も同じなのか、お医者さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、花屋さんになりたいとか、まあ可愛らしいお願い事がありました。一方でなかには目が見えるようになりたいとかガンが治るようにとちょっと深刻なお願い事もありました。
七夕って元々どういう行事なんですかね。いろんな諸説あるらしいですけども、一番有名なのは、彦星と織姫の伝説かな。
彦星さんと織姫さんは夫婦になって非常に仲がよろしかったそうですけども、仲がよろしいが故に全然もうお仕事をせずにまあだらけた生活になったらしくて、それで天のの神様がふたりの仲を引き裂いたと。でもそれじゃあ可哀そうだと、一年に一遍だけ、お仕事をしっかり頑張るという条件付きで合わしてくれたのがこの7月7日という日だったらしいです。
ですので七夕と言ったら、お寺でもなんかいろんな行事してそうな印象なんですけども、実際は七夕というのは仏教行事と全然関係がないんです。
ですから、私のお寺でも七夕と言っても、格別というよりも普段通りのお寺で、まー七夕って何ですかという風な1日でした。
ちょっと仏教的な話しをしますと、仏教というのは、私の願いを仏様にお願いするんでは本当はないんですよね。
というのも、仏教というのは、仏様はいます。
その仏様が私たち人間を救うという願いを、私たち1人1人にかけてくださってるんです。それが仏様なんです。願いを人に向けてるのが仏様ですから、私たち人間が仏様に願い事をすると、願いをかけてる仏様と、こちらから一方的にする「ああなりたいなあ。こうなりたいなあ」と思う願いとが、願いと願いがぶつかって、ちょっと訳がわからないような、そんな不思議な感じになりませんか。
願い願いばっかり言って、願いが渋滞していてよく分からないでしょ。
阿弥陀仏を拝む浄土真宗ではどんなことを表現をうするかと言いますと、「仏様の願いを聞いてお念仏しましょう」と言っています。
なかなか難しそうなことで。「お念仏をして仏様の願いを聴きましょう」とは、難しそうな言い方ですけども、単純に言いますと、「仏様の前に参って、手合わして、今の自分があり、仏さまに見守られているのを喜ぶ」こと。それが浄土真宗の生活なんですね。
ですからこの前の7月7日って、皆さんひょっとしたら短冊にいろんなお願い事を書いたかもしれないですけども、もしよろしければ、私の願いだけじゃなく、仏様から私たちにどんなお願い事してるのかなあと、ちょっと仏様にまいってみて、家のお仏壇の前にまいって見て、手を合わせていただけたらなぁと思います。
ラジオが続かないかも
このブログ記事を投稿したときには、すでにポッドキャストにも配信できているはずでした。アップルIDも取得したのですが、iTunesStoreにサインインできない不具合?にあっています。
現在アップルにメール問い合わせしているのですが、72時間以内の返信とあり、私の意欲が失われるかもしれません。ですので先にブログ記事として投稿しました。
もしもポッドキャスト配信できなければ、次回以降のラジオはないかもしれません。
アップルのサポートのおかげで、なんとかポッドキャスト配信できていると思います。
次のエピソードを投稿しました。満濃池と空海お大師さん【かっけいラジオ#2】
ラジオの補足説明
七夕の願い事
七夕の由来は、織姫と彦星の伝説が一番有名です。
織姫というのは織物がとても上手な女性で、父の天の神様がたいそう喜んでいたそうです。
織姫は年ごろとなり、働き者の牛使いの彦星と結婚しました。
二人はとても仲がよろしく仕事をしなくなってしまったので、織姫の父(天の神様)は二人の仲を裂いたのです。しかし二人が酷く悲しんだので、仕事を一年間しっかり頑張ることを条件に会えたのが7月7日の夜でした。
「仕事を頑張ることや技能の上達」を願うのが、七夕の願い事なんですね。
願い事は誰が叶えるの
七夕は織姫と彦星が再開するために、父の神様に一年間仕事を頑張りますよと約束したお話です。ですので七夕の願い事は、本当は誰もかなえてくれません。自分が努力する約束です。
でも私たちはいろいろお願い事をしますよね。
仏教と七夕の行事は関係ありません。
仏教は私の願いを仏にするのではありません。(現世利益の仏もいるので、一概には言えませんが)
人々を救う願いと誓いをたてたのが、仏さまです。ですので仏教の立場で言えば、願い事を仏に叶えてもらうようにするのではなく、仏さまの願いをたずねて聞いていこうとするのが大切なのです。
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Tue, 09 Jul 2019 - 7min - 358 - 225被災者を助けてくる人たち / 泥棒をする心無い人もいるようだ
日本は地震も含め自然災害の多い国です。他人事と思わず助け合う気持ちが大切です。被災者や被災地域を助けようとボランティア活動をされる人もいる一方で、被災者の気持ちを踏みにじる窃盗や詐欺などの火事場泥棒をする心無い人もいます。
Tue, 12 Mar 2024 - 11min - 357 - 224高野山(和歌山県)で入山税の徴収 / 2028年までにスタートするようだ
世界遺産の高野山がある和歌山県高野町では、2028年までに入山税の導入を検討しているようだ。2023年10月からは広島県廿日市市にある世界遺産の宮島(厳島神社)でも訪問税100円を徴収するようになりました。はたして高野町の入山税は必要なのでしょうか?どんな懸念点があるだろうか。
Tue, 05 Mar 2024 - 9min - 356 - 223お寺の大鐘 / 帰る時に鳴らすのはダメなの?Tue, 27 Feb 2024 - 13min
- 355 - 222お仏壇のお扉 / いつ開ける?いつ閉める?Tue, 20 Feb 2024 - 10min
- 354 - 221旧正月のお参り / お寺や神社に行ってますか?
新暦の年末年始は多くの人がお寺や神社にお参りに行きます。ですが旧正月(旧暦のお正月)はどうでしょうか。お寺や神社に行ってますか?日本では旧正月のお祝いはしないと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
Tue, 13 Feb 2024 - 8min - 353 - 220お坊さんはお経を暗記しているの? / 覚えなくてもいいよTue, 06 Feb 2024 - 10min
- 352 - 219法事の時どんな掛け軸を掛ける? / 3つの注意点も紹介Tue, 30 Jan 2024 - 11min
- 351 - 218お寺の参道が曲がってる理由 / なぜ本堂と山門がまっすぐじゃないのかTue, 23 Jan 2024 - 15min
- 350 - 217お寺の周りに大きな建物ができるとどうなるか / 存在感がなくなり仏教とのご縁が薄まりそう
香川県丸亀市にある自坊円龍寺の北に工場ができるらしい。お寺の建物が見えにくくなるだろう。お寺が見えにくくなると、いったいどういった影響があるだろうか。お寺より高い建物、お寺を隠すような建物がお寺の周りにできることについて話します。
Tue, 16 Jan 2024 - 14min - 349 - 216.輪灯の灯し方 / 油を使って火をつける方法Tue, 09 Jan 2024 - 12min
- 348 - 215.地震で本堂が倒壊したら / お寺を維持できるのかTue, 02 Jan 2024 - 9min
- 347 - 214.浄土真宗の法事のお勤め / 何を読んでいるのかTue, 26 Dec 2023 - 12min
- 346 - 213.香川の冬の室温 / 日本一寒いってどんな理由Tue, 19 Dec 2023 - 12min
- 345 - 番外19.法要のおつとめの流れ / 報恩講法要の式次第Tue, 12 Dec 2023 - 6min
- 344 - 212.法事の前倒し後ろ倒し / 命日からずれても良いのだろうかTue, 05 Dec 2023 - 8min
- 343 - 211.お仏飯にラップをするべきか / 浄土真宗の場合Tue, 28 Nov 2023 - 9min
- 342 - 210.長時間の正座 / あしの痛みは辛いTue, 21 Nov 2023 - 10min
- 341 - 番外13.御正忌の章の拝読と現代語訳 / 御文章「御正忌の章」では他力の信心について説明する
御正忌の章は本願寺の蓮如上人が書いた御文(お手紙)です。宗祖親鸞聖人の命日「御正忌報恩講」のご門信徒のお参りにあたり、不信心の人がいること、ただ南無阿弥陀仏の念仏を唱えたら極楽に往生すると勘違いしていることを嘆いています。御正忌の章では、南無阿弥陀仏の意味、他力の信心を説明しています。
Sat, 08 Jan 2022 - 10min - 340 - 118.2021年に必要だったもの / 声を出すお坊さんはマスクと消毒液が必需品Tue, 04 Jan 2022 - 9min
- 339 - 117.コロナでの仏事の変化 / 新型コロナの2年間を振り返り法事や葬儀などはどう変わった
日本では2020年1月に新型コロナウイルスの感染が確認されました。当初はコロナに感染することがかなり恐れられ、法事や葬儀といった仏事は延期や中止や規模縮小などの対策が取られました。あれから2年の2021年の12月現在、仏事はどのように変化したのでしょうか。
Tue, 28 Dec 2021 - 21min - 338 - 番外12.円龍寺住職法話 / 2021年御正忌報恩講法要
円龍寺ラジオのエピソード番外12。2021年12月12日に円龍寺本堂での法話音声です。新型コロナウイルス感染拡大防止のため円龍寺住職がマスク着用してお話ししました。
2021 円龍寺
御正忌報恩講
お知らせ
* 元の音声を一部、編集削除しています。* 今回は試験的に、法話の間を切り取らず配信しています。
コロナ禍の本堂法話
* 2020年春永代経法要法話.番外5(住職)* 2020年秋永代経法要法話.番外6(住職)* 2020年報恩講法要法話.番外7(住職)* 2021年春永代経法要法話.番外9(本山布教使)* 2021年秋永代経法話.番外10(住職)
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Sun, 26 Dec 2021 - 50min - 337 - 116.おすす払い / 12月に一年の煤を払い新しい年を迎えるための行事
12月20日、東西本願寺では「お煤払い」の行事があります。一年を締めくくる大掃除です。元々は12月13日、一年の厄を払い心身を清浄にして、新年を迎える準備をする意味があります。ちなみに香川では仏壇仏具の掃除・お磨きのことを「おすす抜き」といいます。
Tue, 21 Dec 2021 - 7min - 336 - 115.お経の本が赤い理由 / 浄土真宗の経本は血の色
浄土真宗のお経の本・聖教は表紙が赤い。これは血の色が由来とされます。蓮如上人が福井県吉崎御坊にいた時の火事で「血染めの聖教」や「腹ごもりの聖教」と伝わる出来事。1474年、吉崎御坊の火災で宗祖親鸞聖人直筆とされる教行信証が失われそうになったときに、本向坊了顕が火中に飛び込み、自らの腹を裂きお聖教を守りました。
Tue, 14 Dec 2021 - 6min - 335 - 114.三猿や五猿 / 仏教と猿は関係あるの?Tue, 07 Dec 2021 - 8min
- 334 - 113.コロナ2年目の参拝 / ワクチン接種もすすみ2021年年末の寺社仏閣のお参りは戻りつつある
2020年からの新型コロナウイルスにより、外出の自粛など様々な制限があり、年末年始のお参りは難しかったです。幸先詣・分散参拝・リモート参拝など、新しいお参りの仕方が模索されました。2年目の年末はワクチンの接種もすすみコロナとの付き合い方も理解し、参拝者は戻りつつあるように感じます。
Tue, 30 Nov 2021 - 9min - 333 - 112.親鸞の生涯 / 浄土真宗の宗祖親鸞は平安時代から鎌倉時代にかけて生きたTue, 23 Nov 2021 - 14min
- 332 - 111.四華花・紙華花 / 葬儀での白い紙のお飾りの意味Tue, 16 Nov 2021 - 6min
- 331 - 110.献血に行きませんか? / 全国では一日に3000人が輸血を必要としています
血液は人工的に作れません。全国では一日に3000人が輸血(あなたの血)を必要としています。初めての献血は不安かもしれません。メリットもこれといってありません。しかし献血をする行為は、他の命を救うことにつながりますし、巡り巡って自分の大切な人や自分自身のためになります。
Tue, 09 Nov 2021 - 9min - 330 - 番外11.聖人一流章の拝読と現代語訳 / 浄土真宗は宗祖の報恩講のとき、御文章「聖人一流」を読む
円龍寺ラジオのエピソード番外11。
浄土真宗では宗祖親鸞聖人のご命日のお勤め「報恩講」のとき、蓮如上人の御文章の聖人一流章を拝読します。
かっけい
聖人一流章の拝読と現代語訳を録音しました
* 録音日:2021年11月1日* 拝読者:釋克啓* 録音場所:円龍寺本堂
聖人一流章の全文
聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心のもって本とせられ候。
そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたより往生は治定せしめたもう。
そのくらいを一念発起入正定之聚とも釈し、
そのうえの称名念仏た、
如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ あなかしこ。
聖人一流章の現代語訳
要点
* 大切なのは、阿弥陀仏からのご信心* 阿弥陀仏からたまわったご信心にお任せすること* 阿弥陀仏の方から仏さまの国に生まれることを確かなものしてくれている* お浄土に往生することが確かなものとなり、仏となる者たちとお仲間になる* お念仏の心得は、阿弥陀様のご恩にお応えして感謝するもの
現代語訳
浄土真宗の宗祖親鸞聖人が、一生涯をかけて伝え勧めてくださった浄土真宗の肝心かなめの教えは、阿弥陀仏からのご信心がなによりも第一に大切なんですよということです。
それはどういうことかと言いますと、私たちが自分の持っている器量や能力を頼みとして様々な修行をし仏に成ろうとするのではなく、自分が持っている物差しのはからいを捨てて、ただ阿弥陀仏からたまわったご信心にお任せすることで、私たち人間が考えるようなレベルを超えた、はかり知れない阿弥陀仏の本当の願いの力によって、阿弥陀仏の方から私たち一人一人が仏様の国に生まれることを確かなものにしてくれるのです。
それをどういった状態になるかと言いますと、かつて偉いお坊さんの曇鸞大師は「一念発起入正定之聚」、つまり「阿弥陀仏からのご信心をいただけたときに、阿弥陀仏のお浄土に生まれ往くことが確かなものとなり、仏となるものたちとお仲間になるんだよ」とご説明しています。
そういったわけで、阿弥陀仏からのご信心がいただけた上での仏様から私たちに勧められた「南無阿弥陀仏」のお念仏をとなえることは、阿弥陀如来が私の仏様の世界に生まれ往くことを確かなものにして下さったご恩にお応えし、感謝するためのお念仏なのだと、心得てください。
それでは。それでは。
釋克啓が訳す
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