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ことばランド

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安正 前田

日常使っていることばについて、それに対する思いや、ちょっとした蘊蓄をお話しします。文章コンサルティングファーム未來交創代表の前田安正と、フリーアナウンサーのみどりーぬこと、江川みどりがお送りします。

103 - EP#99 天気は「下る」けれど「上る」ことはない。これはなぜだろう?
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  • 103 - EP#99 天気は「下る」けれど「上る」ことはない。これはなぜだろう?

    天気は「下り坂」とは言うけれど、「上り坂」とは言わないですよね。Facebookで僕の先輩記者が「これは、なぜなんだろう」という疑問を投げかけていました。今回はこれについて、考えていきたいと思います。 この先輩は、「地政学的に言えば、坂は上から歩く人には下り坂で、下から歩く人には上り坂だ。そこにいる人の立ち位置で表現が異なるだけで、本質は変わらない」って言うんです。 確かに標高500メートルの場所が坂道だとして、そこにいる人が上るか下るかで表現が違います。ところが、標高500メートルにいるということは変わらないですよね。上に向かって歩くか、下に向かって歩くかという行動の違いについて、これをなぜ天気に使うのだろう、というんです。 これの表現の背景をちょっと考えてみたらどうかな、と思うんです。例えば、雨の日に「天気が悪い」っていう言い方をしますよね。晴れの日は「いい天気」っていうでしょ。 ところが、天気自体にいいも悪いもないはずです。「いい」というのは、僕たちにとって都合がいいとか、気分がいいとかいう感覚です。いわば主観です。晴ればかり続いて雨が降らなければ、雨乞いをするわけです。悪いものを呼び込むことになります。だから、天気がいい・悪いというのは、僕たちの主観のもんだいです。 「天気がいい」というのは、僕たちの主観として「当然いいこと」だという認識というか刷り込みがあると思うのです。だから「天気がいい」ことが通常の立ち位置になっているということです。そこから天気が雨になれいば「天気が悪い」「下り坂」というマイナスのイメージが働くのではないか、というのが僕の考えなんです。 逆の視点で言うと「天気がいい」ということが通常であれば、天気が回復することをいちいち「上り坂」という必要はないということになる。つまり、通常の立ち位置が「晴れ」なんですね。先輩の言うように、立ち位置をどこに置くかの違いかも知れません。 ◇◇◇ 『伝わる文章がすぐ書ける 接続詞のコツ』(前田安正著、すばる舎)が好評発売中です。 また、『注意ワード・ポイントを押さえれば文章は簡単に直せる』(前田安正著、東京堂出版)です。絶賛発売中です。 Amazonなどでお買いも求めいただけます。 ◇◇◇ 「ことばランド」では、取り上げてほしい「ことばの疑問」や感想をお待ちしています。お便りフォームからお願いします。 ↓ ↓ ↓ https://forms.gle/v4CNrTaroSPYuMgj6 未來交創(前田安正)HP https://kotoba-design.jp/ 江川みどりHP https://www.midori-egawa.com/

    Mon, 29 Apr 2024 - 08min
  • 102 - EP#98 怒られた、ふられた、食べられた・・・こんな受け身の表現をやめれば、心は自由になる!

    新入社員研修などが始まっているんでしょうか。そのうち上司に注意されたりするでしょ。その時の対処法をことばの観点からお伝えしようと思います。 次の例をちょっと見てください。 1)「僕のお弁当を友達に食べられた」 2)「僕のお弁当を友達が食べた」 この違い、わかりますか? 1が「食べられた」だから受動態、受け身の言い方です。2は「食べた」だから能動態です。言い方の違いが精神的に大きな違いを生むんです。 それは、受け身だと被害者意識が生まれると言うことです。「僕の大切なお弁当を、友達に食べられたなんて。腹が立つ!」っていう感じになるでしょ。 「僕のお弁当を友達が食べた」だと、フラットな感じになります。「仕方ないなあ」という許容が生まれます。受け身の被害者意識が、意外に自分を追い詰めてしまうんです。 普通「上司に怒られた」って言いますよね。この時点で、上司と自分に精神的な序列をつくっているんです。納得がいかないと「なんで私が・・・」って思い出して、夜も寝られなくなる。その結果、お酒や甘いものに走って、体がどんどん大きくなってしまうんです。 「彼女に振られた」「彼氏に振られた」も同様です。こういった途端「私の何がわるかったのか」と、自分に落ち度があるかのような感覚に陥る。失恋のほとんどはこういう被害者感情が根っこにあるんです。 これを受け身の表現ではなく能動態に変えるんです。「上司が私を怒った」「彼女が僕を振った」「彼氏が私を振った」と言い変えると、精神的にゆとりが生まれます。 「上司が、何だかわからないことを言って怒ってる」「上司が怒ってる、だから何だって言うんだ?」みたいな感覚になるでしょ。「彼女が僕を振った。僕の良さがわからないんじゃ仕方ないか」「彼氏が私を振るなんて、残念なヤツだなあ」って感じに、スルーできるようになるんです。 若い頃は、僕もよく怒られたけれど、心の中では「何を怒ってんだろうね。どうせ、そのうち異動でいなくなるし」と思っていました。 これを、ノートでも手帳でもいいから、能動態で書きとめておきます。そして、そのうえにバッテン付ける。一種の魔封じです。結構精神的に楽になります。 反省の材料だけ取り込めばいいんだから、怒られる筋合いじゃないんです。怒る人は怒っている自分に興奮しているだけだから。それと同じ土俵に乗る必要はないからね。 ことばは上手に使わないとダメなんです。そのためにもことばの勉強をして、受動態の役割などを知っておくと引き出しが増える、ということです。受け身表現で被害者感情をつくり出す必要はないからね。 ◇◇◇ 『伝わる文章がすぐ書ける 接続詞のコツ』(前田安正著、すばる舎)が好評発売中です。 また、『注意ワード・ポイントを押さえれば文章は簡単に直せる』(前田安正著、東京堂出版)です。絶賛発売中です。 Amazonなどでお買いも求めいただけます。 ◇◇◇ 「ことばランド」では、取り上げてほしい「ことばの疑問」や感想をお待ちしています。お便りフォームからお願いします。 ↓ ↓ ↓ https://forms.gle/v4CNrTaroSPYuMgj6 未來交創(前田安正)HP https://kotoba-design.jp/ 江川みどりHP https://www.midori-egawa.com/

    Mon, 22 Apr 2024 - 13min
  • 101 - EP#97 議論と論議、習慣と慣習、運命と命運・・・漢字をひっくり返しても、成り立つ熟語があります。なんでこんなことが起きたのかを妄想してみました

    議論と論議、習慣と慣習、運命と命運、平和と和平、途中と中途、息子と子息、父親と親父、愛情と情愛のように、熟語の漢字をひっくり返しても成立することばがあります。これについて、調べてほしいという「つみたて兄さん」からのリクエストが届きました。今日は、これについて考えてみたいと思います。 これについての研究はあまりないようなのですが、酒井芳徳さんという方が「可逆語を探す」という本を出しているくらいです。大きく分けて3つに分類できるようです。 その1つは「逆にしても意味の変わらないもの」。 「途中」と「中途」は「道の半ば」とか「物事が進行している中頃」という意味で変わらないですよね。意味は同じだけれど用法は違います。同じ意味では途上ということばもあります。 「途中」は、広く、ものごとが始まってから終わるまでの間のどこかの点を指します。 「中途」は、物事の進行が、まだ中ほどであり、まだ終わっていないという点に意味の中心が置かれているんです。 2つ目が「意味を共有するか関連性の高いもの」。 「議論」と「論議」は、意味は非常に近くて関連性がありますよね。「議論」は「それぞれの考えを述べて論じあうこと」で、「論議」は「ある事柄について意見を出し合うこと。意見をたたかわせること」という意味です。 考えを述べたり意見を出し合ったりする部分は共通するんだけれど、「論議」の方が対立構造を持っているでしょ。この関係のことばが一番多いと思います。 「習慣」は「長い間続けていること」、「慣習」は「長い間続けていることが慣わしになっていること」です。「運命」は「天命によって定められた人の運」とか「将来」のこと。「命運」は「ある事柄の存続にかかわる重大な運命」のことです。 「平和」は「争いや心配事もなく穏やかであること」を言います。「和平」はそれに加えて「戦いをやめ、仲直りすること」を言います。「息子」は「自分の男のこども」を指し、「子息」は「人の息子」のことです。近い関係だけれど、わずかながらずれている感じです。 そして3つ目が「入水」と「水入」のように「全く意味が変わるもの」。 入水は太宰のように水中に身を投げることで、「水入」は、相撲で、相長く組み合ったまま勝負がつかないときに勝負を一時中断して、力士を土俵下で力水を与えてしばらく休ませること。読み方も違うけれどね。物干しと干物もこれと同じ。 こういうことばがなぜ生まれたのか、ということはわからないのですが、「権利」ということばには、権力とそれに伴う利益という意味があるんですね。 「荀子」という中国の戦国時代の思想書があって、そこに「権勢と利益」の意味で用いられるんです。荀子は性悪説を唱えた思想家なんです。権利に伴う利益が、しだいに利益を伴う権利になってきたんだと思うんです。それが「利権」というように、ひっくり返ったことばを生んで「権利」と使い分けられたんだと思います。 「利権」は特に、業者が政治家・役人などと結び公的機関の財政・経済活動に便乗して手に入れる巨額の利益を伴う権利のことをいいます。 「可逆語」は、元々のことばに収まらない意味が生まれて、その関係の強さが生み出したことばではないか、と妄想しているのですが・・・。 ◇◇◇ 『伝わる文章がすぐ書ける 接続詞のコツ』(前田安正著、すばる舎)が好評発売中です。 また、『注意ワード・ポイントを押さえれば文章は簡単に直せる』(前田安正著、東京堂出版)です。絶賛発売中です。 Amazonなどでお買いも求めいただけます。 ◇◇◇ 「ことばランド」では、取り上げてほしい「ことばの疑問」や感想をお待ちしています。お便りフォームからお願いします。 ↓ ↓ ↓ https://forms.gle/v4CNrTaroSPYuMgj6 未來交創(前田安正)HP https://kotoba-design.jp/ 江川みどりHP https://www.midori-egawa.com/

    Mon, 15 Apr 2024 - 14min
  • 100 - EP#96 一寸法師や一寸先は闇などのことばに使われている「一寸」って、何の単位だかわかりますか?

    「一寸法師」っていう昔話を読んだことがあると思います。この「一寸」って尺貫法での単位です。一寸は大体3.03㎝。尺貫法というのは、長さの単位を尺、質量の単位を貫、体積の単位を升とする日本古来の度量衡のことなんです。 今のメートル法が基準となったのは、1885年(明治18年)にメートル条約に加入後のことなんです。1891年(明治24)にメートル法を基準として、尺・坪(面積の単位)・升・貫を定義て、1958年(昭和33)までメートル法と併用されていました。 でも、今でもこうした単位は、ことばの中に生きているんですね。小さな生き物にも魂が宿っているんだという意味で使われる「一寸の虫にも五分の魂」ということばもあります。「一寸先は闇」は「未来のことは全く予測することができない」という意味だし、「一寸下は地獄」は、船乗りの仕事が危険だということに使われて「薄い船板一枚の下は底深い海だ」という意味です。「板子一枚下は地獄」なんて言い方もあります。「寸分の狂いもない」「寸分違わず」とかね。「寸を詘(ま)げて尺を信(の)ぶ」というと「小事にこだわらずに大事を成し遂げる」とか「小利を捨てて大利をとる」という意味です。 今でも、居酒屋さんに行くと「一升瓶」とか「一合」なんてことばを使うでしょ。お酒の容積を表しているんです。「一升」は「十合」で1.8リットル。「裸一貫からたたき上げた」というと「一文無しの状態から財をなした」というような意味で使われます。「一文」もお金の単位で「一貫の千分の一」を言ったものです。令和の時代になっても、生活に根付いたことばは、残っているということなんですね。 ◇◇◇ 『伝わる文章がすぐ書ける 接続詞のコツ』(前田安正著、すばる舎)が好評発売中です。 また、『注意ワード・ポイントを押さえれば文章は簡単に直せる』(前田安正著、東京堂出版)です。絶賛発売中です。 Amazonなどでお買いも求めいただけます。 ◇◇◇ 「ことばランド」では、取り上げてほしい「ことばの疑問」や感想をお待ちしています。お便りフォームからお願いします。 ↓ ↓ ↓ https://forms.gle/v4CNrTaroSPYuMgj6 未來交創(前田安正)HP https://kotoba-design.jp/ 江川みどりHP https://www.midori-egawa.com/

    Sun, 14 Apr 2024 - 15min
  • 97 - EP#95 きょうは4月1日。新年度の始まりです。ところで、月の始まり「1日」を「ついたち」というのは、なぜなんでしょう。4月のアクセントについてもお話ししています

    きょうは4月1日、エイプリルフールです。4月1日の午前中は、軽いいたずらでうそをついたり、人をかついだりしてもとがめられないという風習。18世紀頃から西洋に起こって、大正頃から日本にも伝わったと言われます。きょうは、エイプリルフールの話ではなく、1日を「ついたち」と読むことについてお話ししたいと思います。 結論から言うと「ついたち」は「月立」が変化したことばだと言われています。「立つ」には「始まる」「現れる」という意味があります。月の満ち欠けに合わせて一月としていました。月が最初に現れる日を「月立」と言っていたのです。 新月が最初なので月は見えません。それが少しずつ姿を現して30日目が「つごもり」で、「月隠り(つきごもる)」つまり、月の光が全く見えなくなるころ。陰暦で月のおわりごろ。月末。また、月の末日。転じて、一般に、月の下旬や月の最終日。のことで、これを「みそか」とも言ったんです。「みそか」は「三十日」とも書きます。「三十路」とか和歌のことを「三十一文字」なんて言うでしょ。「おおつごもり」というのが、1年の最後の日、つまり「大晦日(みそか)」のことです。 「つきたち」が「ついたち」になったのは、穏便という発音の変化です。「文を書いて」という言い方も元は「書きて」と言っていました。これが「イ音便」と言われるものです。「さいたま」も「さきたま」のイ音便です。「埼玉」の「埼」は単独だと「さき」と読むでしょ。 月の満ち欠けによる暦を太陰暦と言います。太陰は月のことです。ところが、月の満ち欠けだけに頼るときっちり30日周期とはいかないのでだんだんずれてくるんですね。そこで太陽の動きに合わせて手直ししたのが太陰太陽暦です。 4月の発音じは通常、平板なのですが、最近は最初にアクセントがある頭高になってきているのだとか。近年は平板で尻上がりな発音が多い中、最初にアクセントを持ってくるのは、少し珍しい現象かもしれません。 ◇◇◇ 1月17日に『伝わる文章がすぐ書ける 接続詞のコツ』(前田安正著、すばる舎)が発売されます。 また、『注意ワード・ポイントを押さえれば文章は簡単に直せる』(前田安正著、東京堂出版)です。絶賛発売中です。 Amazonなどでお買いも求めいただけます。 ◇◇◇ 「ことばランド」では、取り上げてほしい「ことばの疑問」や感想をお待ちしています。お便りフォームからお願いします。 ↓ ↓ ↓ https://forms.gle/v4CNrTaroSPYuMgj6 未來交創(前田安正)HP https://kotoba-design.jp/ 江川みどりHP https://www.midori-egawa.com/

    Mon, 01 Apr 2024 - 13min
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